生い茂った草は私の膝よりも背が高い。日当たりの悪い場所には、苔とシダ、ドクダミが、自らの領土を主張するかのように、土の表面を覆い尽くしている。庭の奥の梅の木の更に奥には、人が立ち入ることすら拒む雰囲気が、数々の植物によって作り上げられている。実際、そこには大小数々の昆虫が生息していると推察され、私は到底気楽にそこに足を踏み入れる気になれない。
これは私の心の姿そのものであった。昨年の春のことである。庭は、コロナ禍での外出回数の極端な減少、そしてそれに重なって起こった私自身の生活の乱れの故に荒れ果てていた。いや、「荒れ果てている」とはどういう意味であろうか。庭を何年も眺めていると、植物が移動していることに気がつく。少しずつ、庭に生える草は変化していく。花を咲かせ、種を風に運ばせることで、草は移動している。私の庭はその中継基地に過ぎない。
「荒れ果てている」とは、人間的な、あまりに人間的なものの見方に過ぎないであろう。しかし、私はこの見方を捨てようとも思わない。人間には自然だけでなく文化がある。文化は自然と時に対立する。放っておいても人間の心が自然や真理と一致するということはありえよう。しかし、それは滅多に、いやほとんど起こらない。だから人間は文化を必要とする。方法と言ってもいい。
「荒れ果てている」とは、本当ならば文化的な方法の介入が必要であったにもかかわらず、それが人間の怠慢によってなされなかったということではあるまいか。つまり自然との闘いが必要であったにもかかわらず、それが回避された時に、人間の目の前にある「自然」は荒れ果てる。おそらく人間の心についても同じことが言える。人間の心にも文化的な方法の介入が必要な時があり、それが回避されると荒れ果てる。

闘うことは支配することとは違う。私は自分が回避していた闘いを取り戻すような気持ちで、庭に芝生を植えることを決めた。そのために、自分の手で、これら目の前の草を全て取り除くことを決意した。既に季節は夏になっていた。
背の高い草は驚くべき長さの根をもっていた。それは多くの場合、60センチを超えていた。土をその深さだけ掘り返さなければ、根を取り除くことはできない。ショベルを使い、根を切らずに取り出す地味な作業が続いた。既に猛暑は始まっていた。蚊を極端に嫌う私は毎日長袖長ズボンで作業を行った。服は絞るとしたたるほどの汗を吸っていた。毎日、2時間ほど作業をすると、私は家に入って食塩水を飲み、冷たいシャワーで身体を冷やした。
厄介なのはドクダミだった。ドクダミは根が切れると容易にそこから芽を出してくる。スレート状の踏み石をすべて剥がし、その裏に、伸びたラーメンのように密集していたドクダミの根もすべて取り除いた。
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