角田光代 頑張って返信しない

角田 光代 作家
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 パンデミックのあいだ、私も夫もずっと家にいるので、猫はそれがふつうのことと思ったようだ。一応落ち着いて、旅行も会食も以前に戻ったとき、私たちの帰りが遅いとものすごく怒るようになった。パンデミック前はそんなことはなかったのに、遅く帰るとずっと文句を言いながら玄関に走ってくるのである。

 私はその猫の様子に、「人間もまたしかり」と深くうなずいた。携帯電話が普及して、どんなときも通話可能になると、相手がいつでもそこにいると私たちは思いこむし、ラインやショートメールが出まわると、メッセージを送れば相手は即座に受け取り、すぐに返信すると思いこむ。

 わが家の猫は、飼い主の帰りが遅いことに10年間も慣れていたのに、たった1年で「人は家にいるもの」と思うに至った。私たちもたった数年で、電話はすぐに通じるし、メールの返事はすぐにくるし、ラインは即座に既読がつくものと思うに至り、それらいっさいに応じなければ、それは拒否の意思表示だととらえられるようになった。そうじゃなかった昔のほうが、ずっと長いのに!

 そんなに急ぎの用でもないのに、何度も電話をくれる人がいる。あるとき私はコロンビアに出張中で、ミーティングや取材が続いて電話に出られず、ホテルに帰ったときにまた電話が鳴ったのでようやく出ると、本当にどうでもいい用事で、「すみません、今コロンビアなので、帰国したらこちらからかけてもいいですか」と訊いたら、「は?」と返ってきた。だからなんですか、というニュアンスの「は?」だったので、ちょっとびっくりした。コロンビアだろうが杉並区だろうが、相手が電話に出れば「話せる」ことだと、その人は思っていたのだろう。

角田光代氏 Ⓒ文藝春秋

 私は忘れっぽいので、平日の仕事時間中(8時半から16時半)に受け取った返信必須のメールには30分以内に返信している。それが続くと、この人は返事の早い人という印象を相手に植えつけるらしく、2日、3日と返信できずにいると「先のメールは届いておりますでしょうか」と確認メールがくる。それが圧となり、30分が10分に短縮されて、ますます悪循環となる。

 これを断ち切るには、返信を遅らせるしかない。相手の「人はそこにいるもの」という思いこみを崩していくしかない。

20年ぶりのひとり旅

 2023年に、じつに20年ぶりに、1週間の休みをとってひとり旅ができるようになった。ひとりで異国の町を歩いていて思い出すのは、2、30代のころの旅である。携帯電話なんてなかったしインターネットもなかった。1か月旅をしているあいだ、だからだれとも連絡しなかった。仕事のやりとりが生じたときは、電話屋さんで国際電話をかけ、ちょっといいホテルに泊まってファクスを送ってもらっていた。

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source : 文藝春秋 2025年7月号

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