大阪弁の名脇役として異彩を放った女優・浪花千栄子(1907〜1973)。その生涯はNHK朝ドラ『おちょやん』のモデルにもなった。評論家・翻訳家の芝山幹郎氏が、その演技の魅力を語る。
浪花千栄子はテレフォン・パンチを打たない。説明する要もないと思うが、テレフォン・パンチとは「いまから打ちますよ」と予告する動作のことだ。たとえば、右ストレートを放つ際、右手を耳の後ろに引いてからパンチを繰り出す動作。
予告モーションを伴えば、相手は楽に受けられる。かわすことは容易だし、場合によってはカウンターブロウを叩き込める。役者と観客の関係に置き換えてみよう。予告芝居では意表をつかれることがない。スリルや面白味も出てこない。
そんなぼんくらを、浪花千栄子は一度たりともしでかさなかった。抜く手も見せぬ早業で相手を斬り捨てたかと思うと、何事もなかったかのように飄然と去っていく。まるで手妻使い、いや魔剣の使い手だ。
浪花千栄子が映画の世界で注目されたのは、けっして早くない。溝口健二監督の『祇園囃子』(1953)でお茶屋の女将を演じたときは、40代半ばの年齢に達していた。ただしその超絶技巧は、世間に舌を巻かせるものだった。

《なにもそんな、ひとりで無理せんかてどなたかのお世話におなりたらどうえ》とか《前後の事情察したら、それを上手につとめるのが芸者え。あんた、何年、芸者しとるいね》とかいった恐るべき台詞、ハードボイルドの極みともいうべき台詞が、実にすらりと、「あんた、味噌買うてきて」とでも言わんばかりの調子で口から出てくる。
この芸に初めて接したとき、私は完全に毒気を抜かれた。相手役の木暮実千代も、こちらの気のせいか、ぎょっとした表情を一瞬浮かべたかのように見えた。
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