民間の立場で、ヤマザクラ、サトザクラなどの保護事業に莫大な私財を投じ、桜に生涯をかけた“桜博士”笹部新太郎(1887〜1978)。記者として取材を重ね、親交を深めた北野栄三氏が振り返る。
初めて取材したのは1958(昭和33)年、毎日新聞の「大阪の顔」という欄でした。笹部さんは当時70過ぎ。吉野山、奈良公園、琵琶湖畔、造幣局の「通り抜け」など、桜の名所で植え付けや保存を手がけた戦前の業績から、すでに「桜博士」と呼ばれていました。
笹部さんは東京帝国大学法科で学びましたが、卒業後は職業に就きませんでした。桜の研究を独学で始めたのは、大阪の大地主だった父から「月給取りになってくれるな。男一疋この世に生を享けた甲斐があるだけのことを遺して死ねば本懐ではないか」と言われたから。「それなら日本人の心に深い感銘を焼きつけてきたものに生涯を打ち込もう」と決め、学生時代から桜に打ち込んだそうです。

父が亡くなると、兄から宝塚市にあった土地を譲り受け、東京ドーム8.5個分の広さがある桜の演習林「亦楽(えきらく)山荘」を造園して研究を深めます。その兄が亡くなって家督を継いだあとは、京都の向日町(現・向日市)に「桜苗圃」を造園し、優秀な植木職人や園丁の育成に努めました。
笹部さんの仕事で特徴的だったのは「ソメイヨシノは桜といえない」と強く主張したことです。明治以降、全国に広がったソメイは日本文化に根づいた桜とは縁もゆかりもない。先に花が咲き、後に葉が出るのは品がない。本物の桜はヤマザクラやサトザクラだと言いつづけ、「偽物のソメイが増えるのは、値段が安くて、病虫害に強いところが官僚好みだから」と憂いた。笹部さんは大の官僚嫌いでした。
戦後の業績で大きなものは「荘川桜」です。岐阜県の御母衣(みぼろ)ダムが建設される際、樹齢400年を超える2本の老桜を移植したプロジェクトです。
ダムを建設する電源開発の初代総裁だった高碕達之助が、水没予定地を視察したとき目にとめたアズマヒガンでした。数十トンもの老いた巨木の活着は難しい。さすがの笹部さんも初めは断ったそうです。移植後の1961年に活着を確認したときは、私も同行し、枝に小さい若葉が出ていたことを新聞で報じました。2本の老桜は、60年たった現在も荘川町で花を咲かせています。
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