花菱アチャコ コンビ解消が仕事でも家庭でも転機になった

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花菱(はなびし)アチャコ(1897―1974)は15歳で新派の舞台を踏み、翌年、漫才へ転向。1930(昭和5)年に横山エンタツとコンビを結成。解消後は映画、舞台で活躍。戦後も人気を維持し、高度経済成長期には「むちゃくちゃでござりまするがな」のセリフで一世を風靡した。藤木吾朗生氏は長男。

 親父は小学校に5年までしか通ってません。額縁屋に丁稚(でっち)奉公にやられたり鉄工所でフイゴ吹きの雑役をやったりしてましたが、芸界に入りたいと思い、祖母のつてで、山田五十鈴さんの父親が座長をしている山田九州男一座に入ったんです。私がものごころついたときには千歳家今男と組んであまり売れない漫才をやってました。住まいも私が小学校の6年まで、大阪・北区の共同井戸と男女一つずつの公衆便所があるだけの十軒長屋でした。エンタツ(横山)さんとコンビを組んだのは昭和5年ですから私が9歳のときで、まだこの十軒長屋に住んでいました。おふくろが芸人の着物を縫って仕立て賃を稼いだり、ビルの掃除婦をやったりして生活を立てていました。

 ふだんはとても優しい父親でしたが、夫婦喧嘩はおもに親父の女性問題が原因で起こり、親父も謝ればいいものを痛いところをつかれるものですから、ついかっとなって手を上げてしまうこともありました。親父は大きな身体ですから怒ると怖かった。私も子供のころは親父の顔を見ると縮み上がってました。祖母が私がなかなかいうことをきかなくて困るなどと親父にいいつけでもしたら、私はズボンのベルトをつかまれて、縁側から思いきり庭に放り投げられてました。

花菱アチャコ

 父もエンタツさんとコンビを組んでいる間はストレスの塊でしたから、いらいらしており怒りやすくなっていたこともあるでしょう。横山さんは天才肌でしたし、中学も3年くらいまで行っており、当時ではインテリでした。横山さんにいじめられたといっては妙な表現ですが、親父の場合は実践のたたき上げでしたので横山さんの近代感覚についていくのは大変でした。親父は努力型のタイプですから、時代感覚がズレないようにいろいろと勉強していました。「二人が舞台に立つと火花が散る。エンタツ、アチャコはコンビでなければ1たす1で2にしかならないが、二人が舞台でやれば5かける5で25になるんや」と親父はよく言ってました。

 私が中学2年のとき、横山さんとコンビを組んで約4年後、親父は中耳炎で大阪の赤十字病院に入院しました。入院直前に新橋演舞場の漫才名人大会で「早慶戦」を演じたのですが、すでに横山さんの声が聞き取りにくかったそうです。

 そして、親父が1カ月後に退院したときには、横山さんは父とのコンビを解消し、杉浦エノスケさんとコンビを組んでしまったのです。そこで親父はかつての相棒だった千歳家今男と再びコンビを組んだのです。後にそのときのことを「目の前が真っ暗になった。男泣きに泣いた」と私に語ってましたが、本人にしてみれば谷底に突き落とされた心境だったでしょう。

 でも、その後、漫才のコンビは組まなかったものの、映画や実演では二人で共演してますから、コンビ解消直後をのぞけば特別なわだかまりはなかったと思います。

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source : 文藝春秋 1989年9月号

genre : エンタメ 芸能