現在につながる「しゃべくり漫才」の元祖といわれる横山(よこやま)エンタツ(1896―1971)。喜劇役者として各地を回ったのち、大阪の吉本興業に入り、花菱(はなびし)アチャコとコンビを組んで『早慶戦』などで人気者となる。約4年でコンビを解消し、その後は劇団を結成。戦後はラジオ、テレビでも活躍した。花紀京(はなききょう)さん(1937―2015)は次男で俳優。
家での親父はとても厳格でした。小さいころから廊下の拭き掃除を毎朝させられましたし、布団の上げ下ろしはもちろん、自分の下着はタライで洗濯させられました。外でしゃべり疲れたのか家の中では無口でした。実生活は真面目一方でした。ただ、後で気がついたんですが、あれが二号さんだったのか、という女性はいました。まだ僕が小学校に上がる前でしたが、親父は住吉の自宅から自転車に僕を乗せてその女性の住む天王寺の二階家に連れていくんです。親父は二階に上がり、その間僕は下の部屋でお手伝いさんと遊んでるんです。お菓子で歓待してくれましたから、何も知らない僕はその家にいくのが楽しみでした。カモフラージュのために僕を連れていったんでしょうが、子供ですから家に帰れば話してしまいますので、母は知っていたと思います。
僕がこの世界に入るのも強く反対されました。「サラリーマンになれ、サラリーマンになれ」と口をすっぱくして言ってました。兄弟5人いて僕以外にこの世界に入ったものはいません。学校に上がってからは高校時代まで親父の楽屋にいったことありません。とうとう僕が大学を中退して芸界に入りましたら、こんなことなら戦後の地方回りしてるときに、連れて歩けばよかったとこぼしてました。

父自身、芸人の世界が嫌いだったようです。やっと税金が払えるようになってよかったと喜んだ芸人さんがいたように、昔は世間から1ランクも2ランクも下に見られていたもんです。役者をやっていて相当いやな思いを味わったことがあったんでしょう。親父から愚痴を聞いたことはありませんが、見下げられた経験がこびりついていたんでしょう。もともと本人はなりたくて芸人になったわけではありません。
祖父は尼崎で医者を開業してたんですが、親父は継母とうまくいかなくて旧制中学在学中に家を飛び出したそうです。馬賊になるつもりで商売をしている叔父を頼って満州に渡ったんですが、大病を患ってしまい、まともな仕事につけない状態でした。そのとき満州を巡業している一座にもぐりこんだんです。継母と仲よくいってれば上の学校に進み医者になりたかったようです。
その後、日本ではなかなか芽がでないので、日系人相手に一旗挙げようとアメリカに渡りました。ところがアメリカでハトロン紙の封筒が盛んに使われているのを見て、日本もこれからは風呂敷から封筒の使い捨て時代になると考え、帰国したら芸人をやめて封筒でひと儲けしようと胸算用し、ハトロン紙を沢山買いつけて日本に帰ってきたんです。
しかし、この商売に失敗しまして再び芸界へ戻ったときに、花菱アチャコさんとコンビを組まないかと吉本興業からもちかけられたんです。エンタツ、アチャコの人気はすごいものでしたが、4年ほどコンビを組んで解散してしまいました。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 1989年9月号

