東條英機(とうじょうひでき)(1884―1948)は陸軍大学校出身でありながら評価されず、エリート畑を歩めなかったが、二・二六事件後の軍の改革を機に頭角を現し始め、関東軍参謀長、近衛内閣で陸軍大臣を歴任した。首相の時に日米開戦を決断。陸相、内相を兼任し最高権力を握ったものの、サイパン陥落で辞職に追いこまれた。戦後、極東国際軍事裁判で絞首刑判決を受け、昭和23(1948)年執行。享年63。語り手の八木正男(やぎまさお)さんは元外交官。
昭和20年の12月初旬、戦犯としてでなく、マッカーサー指令違反ということで、私は大森捕虜収容所に入れられました。朝鮮総督府からの要請で、外務大臣の出張命令により朝鮮に残っていた日本人の帰国処理の任にあたっていたのですが、10月に日本官吏の海外渡航が禁止されたことを知らず、博多を発ってしまったのです。ソウルで米軍の第二十四師団に逮捕されて、飛行機で厚木に送還され、大森に連れてこられました。

朝、散歩をしていると、風呂場のところから湯気が出ているのが見えたので、これはいいと思い、さっそく風呂に入ることにしました。軍隊用の風呂は、一度に100人は入れるのでプールのように広く、そこに一人で入ったので、泳いだりもして、十分に満喫して上がりました。ところが身体をふいて下着でもはこうかというときです。ガラッガラッという音がして、人が入ってきました。最初相手は、私がいたのでびっくりしたような顔をしていましたが、次の瞬間には私をギッと睨みつけた。もちろん恐かったですよ。顔を見たとたん東條さんだと判りましたから。
戦時中情報局に勤めていて、私は総裁秘書官でしたから毎日のように官邸に出向いていました。東條さんと直接話す機会はありませんでしたが、廊下ですれ違うことはけっこうあったのです。でも彼は、私が頭を下げて挨拶しても、何も返してこない。いつも神経質そうな顔をしていてニコリともしなかった。秘書官室に顔を出すこともありましたが、自分の秘書官に用件を言いつけるだけで、出ていってしまった。冗談のひとつも言わない。笑うということを知らない人だと思っていました。
東條さんは、大のコーヒー好きで、それを知っているジャワなどコーヒー産地を占領している指揮官たちが、麻袋にいっぱい詰めて送ってきていた。でも他の大臣へのお裾分けが時折あった程度です。
この東條さんに風呂場で睨みつけられたのですから、ほうほうの体で退散しました。もう怖い形相しか覚えていません。そして軍曹2人がいた囲炉裏のある土間に行き、この顛末を話したら、びっくりして、「東條さんが口開けなんですよ。それなのにあなたが先に入ったんですか。それは怒るでしょう」と言うのです。軍曹たちが風呂焚きをして、沸くと東條さんのところに連絡に行く。どうもその前に私が入ってしまったようです。どうして東條さんが口開けと決まっていたのかは聞き洩らしてしまいました。他の収容者たちは、和気あいあい一緒に入っていたのに、彼だけが独りで入っていたのが不思議でした。
しかし彼らは、「もう将校も下士官もないのだから、何で私らが毎日風呂焚きをさせられるのか、おかしいですよね」と不満をもらしていました。
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source : 文藝春秋 2000年1月号

