岡田啓介(おかだけいすけ)(1868―1952)は福井生まれ。海軍士官となり大将まで進む。海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍大臣などを歴任。昭和9(1934)年7月、内閣総理大臣に就任。11年2月26日、陸軍反乱部隊に襲われるが、義弟の松尾伝蔵陸軍大佐が身代わりとなり、九死に一生を得る。太平洋戦争末期には重臣として終戦工作をおこなう。貞寛氏は次男で元海軍主計少佐。
「二・二六事件」以来しばらくの間、父はいわば閉門蟄居(ちっきょ)の身でした。もっとも、父の性格からして、失意のドン底に落ちた、というような感じはなくて、外出こそしないものの、酒も飲んでいましたし、家の中の雰囲気もべつに暗くはありませんでした。後にある人が「あのころの岡田はまるで生ける屍(しかばね)だった」と言っていますが、それはウソです。

しかし、当時は陸軍筋などから「岡田はおめおめと生き延びた卑怯者だ」という声も聞こえてきましたし、内心はやはり複雑だったと思います。だから、事件の次の年、昭和12年の天長節に総理大臣経験者として前官礼遇(退任後も宮中などで在任中と同じ待遇を受けること)を賜ったときは、陛下の思し召しに感激の極みだったでしょう。
父は反乱軍が占拠している首相官邸を2月27日昼に脱出し、翌28日午後7時半に皇居で陛下に拝謁するんですが、父が退出したあと、陛下は側近に「岡田は大変に恐縮して興奮しているから、周囲のものがよく注意して考え違いをさせないように」とおっしゃいました。それを後でうかがったとき、父は感涙にむせんでいました。そのときから、この陛下のために命を投げ出さねばならないと決意したと思いますが、前官礼遇を賜ったことで、この気持ちをいよいよ固めました。
三方の上に白鞘の短刀が
海軍の主計士官だった私は、昭和19年8月に横須賀からフィリピンに転勤になりました。あるところから、「大将の家はいいよ。2人の息子が両方とも内地勤務なんだから」という陰口が聞こえてきたんで、若かった私はカッときて、戦地勤務を志願したんです。
出発のとき、父はこう言いました。
「死に急ぎはするなよ。しかし、お前は俺の息子だから、捕虜にだけはなるなよ」
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source : 文藝春秋 1989年9月号

