三者の生き方を比較すると近代日本の国家像が浮き彫りになる
日本近現代史のなかの「真正保守」の地下水脈を辿り直しながら、混迷を深めるばかりのいまの政治や社会に新たな思考の微光を当てることができたらと考えて私はこの連載に臨んでいるのだが、現在進行形の状況の劣悪さは目を覆うばかりである。これまでに何度か詳説した自民党裏金問題は、政治倫理審査会でも真相解明される気配がなく、幕引きに向かおうとする岸田政権と世論は乖離している。それに加えて、自民党青年局近畿ブロックの若手議員らの懇親会で露出の多いダンスショーが開かれたというスキャンダルなども報じられた。
倫理の底が抜けたようなこの惨状を見るとき、国民感情は、もはや政治不信というようなありきたりな言葉で表現されるべきではなく、芯まで腐った政治構造への怒りでなければならないと強く思う。
この醜態の深部は、いまの光景だけを見ていても深部は明らかにならない。ものごとには原因と結果があり、結果として現在の光景を引き起こした原因を探る必要があるだろう。それは、政治家と国民双方の責任を追及することを意味する。
「政治家の劣化」とはよく言われることであるが、それはなぜ起こったか。一つの重要な観点として、衆議院における小選挙区比例代表並立制という選挙制度によって、民意の率直な反映に歪みが生じるようになり、党の方針に追随する政治家や世襲議員など既得権にしがみつく者が有利となり、自立した真っ当な政治家が育ちにくくなったことが挙げられる。「制度」が人をつくるという作用を、私たちは再認識すべきである。
では国民の政治意識を点検するうえで、いま最も根本的な論点は何だろうか。それは、国民が民主主義に飽いているという現状への批判でなくてはならないと私は思う。いまの日本は民主主義国であり、日本社会の根本には民主主義というイデオロギーがあると当然のように思われているが、民主主義を成立させるための国民の社会意識、不断の政治的関心、権利と義務への認識などが根本から崩れてきているのではないか。私たちはこの恐るべき問いに向き合わなければならないのである。
政治家の劣化と国民意識の摩滅が一体化したのが「選挙民主主義」とでも言うべき、民主主義が形骸化したありようであろう。投票率は低下しつつあるとはいえ、投票においてはたしかに参政権が行使される。だが、国民の政治参加は選挙時のみとなり、それ以外の通常時の政治への関心、政策への意見、政治家への監視は極めて微弱になっているし、ほとんど「制度」化されていない。こうして私たちは、民主主義の全体像を我が物とすることができないでいるのだ。
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