農作業、雪祭り、家畜処分…自衛隊は便利屋なのか。
自衛隊の存在意義を問う
春北風が路上をさらう年度末の夜、東京・六本木のとある中華料理店。待ち合わせの15分以上も前に背を正して座る、戦車のように分厚いその後ろ姿には妙な迫力があった。
陸上自衛隊元幕僚長、岡部俊哉(63)。陸自最強部隊といわれる第1空挺団出身、組織ど真ん中のキャリアパスを経て陸幕長に昇りつめながら2017年、南スーダン日報問題で稲田防衛大臣とともに引責辞任。「豪胆と緻密」が同居する統率力で、いまだ信奉者の多い元陸将だ。
皆の話題が、私が昨夏に出版した『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』に移ったとき、岡部が身を乗り出してきた。「ご本は大変面白く拝読しました」。そう紋切り型の挨拶を済ますと、「しかし一点だけ、申し上げたいことがあります」と真顔で切り込んできた。
岡部俊哉元陸幕長
『暁の宇品』は広島・宇品に基地を置いた旧陸軍船舶司令部が舞台だ。原爆投下直後、宇品最後の司令官・佐伯文郎中将は上層部の命令を受けないまま独自の判断で被爆地に全軍を投入、市民の救援救護にあたった。現在の自衛隊の活動を先取りするような異例の決断だった。私はあとがきで、取材中に耳にした自衛隊幹部の発言を批判的にこう書いた(要約)。
――最近、災害派遣について「自衛隊の本来業務ではない」「演習の邪魔になる」といった声も聞こえてくる……。
岡部が指摘したのはこの箇所だ。
「災害派遣は任務であり、これを決して否定するものではありません。一方で自衛隊は宇宙やサイバーなど任務が多様化する中で組織としてかなり無理を重ねており、現場の指揮官たちは焦っています。災害派遣は国民の支持を得ているので現役は声をあげられない。政治との関係においてOBの私たちが訴えねばならぬことが多々あります」
そこから始まる長い話は自衛隊の存在意義を問う、傾聴に値する内容であった。ロシア軍によるウクライナ侵攻以降、国内では防衛予算増額の大合唱だ。が、本稿は一連の流れとは一線を画すことを冒頭に断っておきたい。陸自の元最高幹部らへの取材に基づき、これまで批判的な分析がなされてこなかった災害派遣の現実について考察する。
御巣鷹山でのトラウマ
自衛官としての岡部のキャリアは第1空挺団時代、1985年の日航機墜落事故から幕を開けたといっていい。岡部は御巣鷹山の現場に最初に乗り込んだ小隊長のひとりで、ヘリコプターによるあの歴史的な生存者の救出を指揮した。
それは「人生最悪の現場」だった。着陸した時、思わず踏んでしまったのは人の耳。形をとどめぬ遺体が地面に、木の幹に、へばりつく。急斜面の尾根伝いに生存者を探す。「これは戦場だ」と思った。「職業を誤った」とも悔いた。目に映るすべてが人間として耐えられる限度を越えていた。それでも一つ一つ現場の体制を整えていくうち、「これなら、自衛官としていける」と正気を取り戻した。
現場から戻って約ひと月、アパートのベランダに毎夜、自分が収容した死者たちが並んだ。死臭が脳裏から消えず、肉が食べられない。病院送りにされては自衛隊に復帰できないと思った。職場では強気を装うも、家に帰るとウィスキーを浴びるように飲んだ。のちにそれがASD(急性ストレス障害)の典型的な症状だったと知り、隊員の心のケアがいかに重要かを痛感した。
究極の現場で、隊員は文字通り命を張った。しかし、社会から向けられた言葉は、「自衛隊の出動が遅い」――。約30年後、民放のテレビ局から取材を受けたが、ディレクターの第一声は「出動が遅かったのはなぜか」。当時の自衛隊は暗視能力が低く、山岳地帯における夜間のヘリコプターの運用は困難だった。墜落現場が特定されない中、部隊主力は徒歩で暗夜の山地を踏破していた。自衛隊に厳しい視線が注がれる時代は長く続いた。
旧軍の負債を背負って
自衛隊の歩みは、太平洋戦争で国家の破滅を招いた旧軍の負債を背負っての始まりだった。自衛隊の生みの親たる吉田茂は1957(昭和32)年、防衛大学校第1期生に対してこう語っている。
――君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかもしれない。非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない(平間洋一「大磯を訪ねて知った吉田茂の背骨」『歴史通』)。
吉田の言葉どおり、憲法問題では鬼子扱い、冷戦時代は「税金泥棒」と揶揄された。基地に新任する隊員の住民票が役場で受付を拒否されることさえあった。国民との距離を縮めようと自衛隊が取り組んできた「ご近所づきあい」つまり民生支援やボランティア活動を列記すると、ちょっと驚くほどだ。
5月、青森・弘前ではリンゴの花が咲き始める。その摘花作業に自衛隊員が参加を始めたのは、弘前駐屯地が開庁した翌年の1969年から。この春も120人余の「援農ボランティア」が農家の人手不足解消を支援。地域によっては受粉や摘果作業も行う。また北陸の部隊はかつて霜害対策でも出動した。農家の納屋に泊まり込み、明け方、煙幕機を使って「地域煙幕」を張る作業だ。田植えや稲刈りを手伝ってきた地域もあり、その時期に演習が重なると地元からは批判の嵐が起きたという。
札幌の雪祭りを裏方で支えるのも自衛隊だ。例年、北部方面輸送隊は大型輸送車1000台分の雪を会場に運搬、普通科連隊など数百人を動員して巨大な雪像を制作。これが祭りの目玉となって久しい。ちなみに「市民雪像」の裏方も自衛隊。平日は仕事で忙しい市民にかわって迷彩服の隊員たちが作業にあたる。
これら「ご近所づきあい」に比べ、災害派遣の場合は判断基準が厳格だ。派遣要請を受けると防衛大臣らが「緊急性」「公共性」「非代替性」の三要件を総合的に勘案し、やむを得ないと認める場合にのみ部隊を派遣する。
だがその災害派遣においても、岡部には苦い思い出がある。2004年、第28普通科連隊長(函館)時代。以下は当時の勤務記録。「5月19日=島牧村月越峠地区行方不明者捜索」、「5月29日=函館市三森町行方不明者捜索」、「10月5日=上ノ国町行方不明者捜索」、「翌年3月21日、横津岳地区行方不明者捜索」。わずか10か月の間に四度の災害派遣。すべてキノコ狩りや山菜とりで山で迷った市民の捜索だ。自衛隊が動けば大人数で効率がよく、人件費もタダ。だから自治体は自衛隊を使いたがる。岡部はいう。
「3要件を満たす災害ならば、迷うことなく部隊を指揮して出動します。でもこの派遣はすべて個人都合のキノコや山菜とりに伴う行方不明者捜索です。人命にかかわるとはいえ、公共性はもちろん非代替性も該当しない。お世話になっている地元から頼まれると自衛隊としてはNOと言いにくいのですが、これだけ頻繁に出動すると部隊任務はこなせません。近年は禁止区域に立ち入って雪崩に巻き込まれたスキーヤーらの捜索の派遣等も耳にしており、同じような事例は各地に結構あると思います」
さっぽろ雪まつりの雪像
国民の9割が好印象
日本列島で大地震が頻発するようになり、自衛隊の災害派遣の潮目は大きく変わった。阪神・淡路大震災で県知事からの正式な出動要請を待ったため出動が遅れた苦い経験以降、周辺整備は一気に進んだ。災害発生後72時間以内の初動を担う「ファスト・フォース」が組織され、震度5弱以上の地震ではカメラを搭載したヘリが自動的に飛び立ち現場の映像をライブ配信する。平時から主要自治体に自衛隊の防災監を常駐させ、災害時に迅速な連携を行う仕組みも整った。
2011年の東日本大震災、陸幕長は統合幕僚長の命令を待たず被災地に部隊を投入、10万人体制で1万9000人を救助した。実に助かった人の約7割が自衛隊に救われた計算になる。福島の原発事故では、日本政府の初動が遅いとアメリカ側が苛立ちを募らせる一幕があったが、両者の不信を解消したのが陸自ヘリによる空中放水だったことが日米双方の証言で明らかになっている(太田昌克『日米中枢9人の3.11』)。いつ爆発するかもしれぬ原子炉の上空、高放射線量の中での過酷な任務は、訓練を積んだ部隊でなければできぬ命がけの活動だった。
今年5月、朝日新聞と沖縄の新聞社・テレビ局が行った世論調査が目を引いた(5月13日付朝日新聞)。かつては自衛隊の配備に抵抗感の強かった沖縄で、今後の沖縄の自衛隊をどうするのがよいかという質問に対し50%が「現状でいく」、33%が「強化する」と答え、「撤去・縮小」は13%だった。内閣府の世論調査でも近年、国民の約9割が自衛隊に「良い印象」を持っていると答えており、隔世の感がある。
同調査で国民が自衛隊に期待する内容の8割は「災害派遣」だ。今やその災害救助活動の技術は世界屈指と評価されるまでになり、入隊希望の理由に災害派遣を挙げる応募者も増えた。過酷な現場で体を張る自衛隊員の姿はメディアを通して広く伝わり、政権の支持率をも左右するほど影響力を持つようになった。
手持ち無沙汰の隊員
近年の自衛隊の災害派遣について、批判的な検証はほとんど目にしない。あらゆる関係者から感謝される業務に、もの申すことは難しいからだ。しかし東日本大震災で10万もの勢力を投入し、「プッシュ型支援」で成果をあげた余波は、逆にその後の出動に少なからぬ負の影響を及ぼしている。
2016年4月、熊本地震。ここでも自衛隊が人命救助から物資輸送、災害ごみの除去まで八面六臂の活躍をしたのは周知の事実だ。一方で、地元では「自衛隊が遊んでいる」といった非難の声がSNS上を飛び交う事態があった。当時、第八師団長(熊本)だった岸川公彦は苦々しく振り返る。
「人口の最も多い熊本市街エリアは、われわれ第8師団と大阪から駆けつけてくれた第三師団が主体となって救援活動を行いました。これらに加え、中央の指示により全国から数多くの部隊が駆けつけて来てくれたのですが、被害が集中した熊本平野にはすでに部隊が結集できる地積がなく、やむを得ず阿蘇の外輪山の中に集結することになりました。
ところが阿蘇地区の人口は数万ですから、数週間もすると部隊はやることがなくなってきます。それでも次から次へと応援部隊が送られてくる。政府が派遣人数を宣言した以上、原隊にも帰るに帰れなくなり、結局、“遊んでいる”と揶揄されるような状態になった。政府にとっては“何万人、被災地に投入した”が重要で、その数字は多ければ多いほどいいんでしょう」
結局、熊本地震では東日本大震災以降最多の2万6000人が派遣された。その半数が西部方面隊以外からで、中央は南西諸島有事に備えて隊員を九州に輸送する演習が生きたと胸を張った。しかし延べで見ると約81万5000人が約50日間拘束され、現地には彼らを移動させる輸送手段も乏しく、ニーズの少ないエリアに手持ち無沙汰の隊員が溢れかえる結果を招いた。
岸川と旧知の間柄である田浦正人は当時、第7師団長(千歳)。隊員が余っているとの情報は伝わっていたが、中央からは変わらず強い派遣要請がくる。首相が国民に宣言した数字は、自衛隊として実現せねばならない。田浦は岸川に電話し、「そっちは困っているらしいけど、悪いがウチからも出すよ」と断りを入れて渋々、部隊を送り出した。田浦はいう。
「われわれ指揮官は目の前のことより、常に次の段階を考えて行動するよう訓練されています。災害も戦場と同じ、ニーズは刻一刻と変わるんです。しかし政治家の多くは危機管理の訓練など受けたことがない、いわば素人です。残念ながら当時は、とにかく人数を送れという発想しかなかった」
「数字と戦わない」
その田浦は2年後の18年9月、北部方面総監として北海道胆振東部地震に直面する。地震発生時の午前3時には東京に出張中だったが、夜明けとともに木更津から自衛隊機で帰着。災害現場では4000人体制で偵察、救援を始め、情報収集も進んだ。
ところが昼前、部下が慌てて総監室に飛び込んできた。
「総監、大変です! 自衛隊が2万5000人を被災地に投入するとテレビでやってます!」
田浦は思わず「なんだって!?」と叫んだ。
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source : 文藝春秋 2022年9月号