京都出身の母は、10代の頃から神奈川県にある松竹の大船撮影所前の食堂で働いていました。そこに通っていたのが、俳優としてまだ駆け出しだった父・佐田啓二です。同じく京都出身の父は、俳優になるために訛りを消す練習をしていたのですが、母は喋ってすぐに同郷の人だと分かってしまった(笑)。当時の父は貧しく、いつも大学の制服を着ていたそうです。同郷の懐かしさや安心感もあったのか、2人は自然と惹かれ合うようになったといいます。
母は食堂の常連だった映画監督・小津安二郎さんにも可愛がってもらっていて、小津さんの私設秘書のような役目をしていた時期もありました。父も小津さんも、母のサッパリとした性格を気に入っていたのではないでしょうか。映画監督や俳優だからといってゴマをすることは無く、あまり遠慮なくズバズバとものを言っていたそうですから。仲人は小津さんと、父のデビュー作『不死鳥』の監督・木下惠介さんが引き受けてくれました。
母の竹を割ったような性格は結婚後も変わらずで、我が家に残っているホームビデオにも、音声は入っていませんが、父が何やら母に怒られている様子が映っているものがあります。当時「銀幕のスター」だった父が、母に何かを言われてどんどん下を向いてしまう(笑)。映画の中のかっこいい父も好きですが、我が家でしか見せない父の姿も私はとても気に入っています。それでも夫婦仲はよく、撮影で家をあけることが多かった父は母とたくさんの手紙を交わしていました。「子どもをよろしく頼みます」といったことも書かれていて、父は当時としては家庭的な男性だったと思います。
父の周りにはいつもたくさんの人がいて、私は自宅で開かれる宴会の席に顔を出すのが楽しみでした。お庭に面した部屋に俳優仲間や監督さんたちが集まっているので、私は2階からそっと降りてきてお酌をしてまわっていました。素敵な大人たちに可愛がってもらうことも嬉しかったですし、楽しそうな父を見るのも好きでした。
「寝たきりでもいいから…」
父が亡くなったのは1964年8月17日。私たち家族は長野の蓼科高原の別荘に来ていました。その日は父だけが仕事で東京に帰らなければならず、運転手さんと一緒に早朝に出かけていきました。その日の私の記憶は曖昧なのですが、父が交通事故に遭ったと知らせを受けた母がすぐに病院に行ってしまったことは覚えています。私と弟が祖母に連れられて東京の家に帰ると、いつも自宅の宴会に来ている大好きな大人たちがたくさんいる。私は嬉しいのにみんなは泣いていて、お庭にはいっぱいの花輪が並んでいました。母も目を赤く泣き腫らしていて、6歳だった私にも、何か悲しいことが起きたということは理解できました。
父の死後、母は「父親の代わりはできないけれど、母親を120%やる」と言って、私たちを厳しく育ててくれました。そうやって気丈にふるまっていた母ですが、後から聞いた話では、何度も私たちを連れて死ぬことを考えていたといいます。結婚まで10年間交際していた両親ですが、結婚生活は7年。子供も生まれて、幸せの真只中での事故でした。
母はよく「寝たきりでもいいから何十年もずっとそばにいてほしかった。でも本当に寝たきりになったら、きっと一瞬で死なせてあげたいと思うのよね」と言っていました。きっと私たちの見えないところでたくさんの涙を流したのだと思います。でも、母は一度も事故を起こした運転手さんを責めることはありませんでした。父の死を理解できるようになった私たちにも、「パパの運命だから誰のせいでもないの」と言い聞かせていたのは、身内ながら立派だったと思います。
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