鹿島茂「菊池寛アンド・カンパニー」

楠木 建 一橋大学特任教授
エンタメ 企業 読書

日本の社会起業家の嚆矢

 私見では、菊池寛ほど面白い人はめったにいない。著者は当代きっての評伝の名手。面白くないわけがない。

「文学者としての価値は後世の批判を待つほかない。しかし雑誌経営者としては確かに成功したと自信している」――菊池寛にとっては文藝春秋という雑誌こそが自分の最も重要な作品だった。

鹿島茂『菊池寛アンド・カンパニー』(文藝春秋)3630円(税込)

 会社設立から雑誌創刊に至る動機がイイ。「頼まれてものをいうことに飽きた。自分で考えていることを読者、編集者に気兼ねなしに、自由な心持ちで言ってみたい。(略)一には自分のため、一には他のためこの雑誌を出すことにした」――「自分のため」がそのまま「他のため」になる。

 友人の小説家、久米正雄が失恋したときのエピソードがイイ。失恋なんか一時の感情。この際いちばん必要なのは原稿料だ――菊池は時事新報に話をつけて、久米に小説を書かせる。こうして始まった新聞小説「螢草」は世間の注目を集め、思惑通りに久米に大きな収入をもたらした。久米が失恋から立ち直ったのはいうまでもない。このエピソードに菊池寛の美点が凝縮している。第一に現実主義。第二に、功利を実現するため自ら動く。第三に、具体的な解決策を提供するところまでやりきる。

 文壇で成功した菊池の周囲には、才能に恵まれているが作品を発表する媒体を持たない文学青年たちが集まった。彼らに食事を奢り、生活費を与える。そうした中で生まれたアイデアが雑誌の創刊だった。文藝春秋は制作費を菊池のポケットマネーで全額負担した個人雑誌としてスタートする。自分が考えていることを一切の制約なしに言えるメディアを作る。自分の周りに居る若い人たちの発言メディアを確保する。無名作家時代が長かった菊池は、媒体を求める文学志願者の思いを痛いほど理解していた。

 1923年1月の創刊号は3000部、4月号でついに1万部に達し、黒字化を達成。誰にも頼まれていないのに、8月号で創刊号から4月号までの損益決算を発表しているのが面白い。「文藝春秋の経営の実態がよくわかっただろう」――情報公開によってステイクホルダーの信頼を得る。広告を打ったときと打たなかった月を比較して、効果を確かめながら部数を調整する。自らコピーを考え、どんな言葉がターゲットに刺さるかチェックする。経営者としての近代性を感じさせる。こうした中で、菊池一流の名文句が生まれる。「慰楽のみに心を惰せしむる事勿れ 学芸のみに心を倦ましむる事勿れ 六分の慰楽四分の学芸 これ本誌独特の新天地也」

 菊池寛こそが日本の社会起業家の嚆矢。その思考と行動は現代でも色褪せない示唆と教訓を含んでいる。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

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