その日、菊池はひとりダンスのステップを踏んでいた
池島信平らの旧文藝春秋社社員は元専務・佐佐木茂索を社長として戴き、昭和21年3月23日、旧文藝春秋社のあった大阪ビルで文藝春秋新社を発足させた。しかし、社長を引き受けた佐佐木にとって、その再出発は薄氷を踏むような緊張の連続であった。新会社設立のための資金調達にメドが立ったのが、その前日の22日のこと、しかも、まったくの偶然によるものだったからである。
「三月二十二日、私は伊東から上京の車中でたまたま大倉喜七郞氏に會つた。上京の用件を問われたので、ありのままに答えると、資金はわたしも出そうじやありませんかという好意あふるるものであつた。燒野原の東京では泊るところも滿足にありますまい、今夜はうちへお泊りなさい、夕⻝の仕度もしておきます、とも申出られた。その日は社を社員ぐるみ買いたいという人物と會見したりして、夜も八時過ぎに麹町の燒あとに一軒殘つた大倉邸に行くと、まだ御自分も⻝事せずに私を待つておられた」(『文藝春秋三十五年史稿』所収「私史稿──跋に代えて──」)
ここでは明記されていないが、池島は『雑誌記者』(土曜社)で大倉が出資を申し出た資金は20万円であったと書いている。
それはさておき、佐佐木のテクストの中で「社を社員ぐるみ買いたいという人物」というのがだれか気になるところだが、池島によれば、戦後すぐに新生社を立ち上げ、雑誌「新生」を創刊した青山虎之助である。この青山虎之助については戦後ジャーナリズム史ではかならず取り上げられるにもかかわらず、土建屋だとか闇の紙屋だとか噂ばかりが先行していたが、昭和48年に私家版として出版された『回想の新生──ある戦後雑誌の軌跡』(「新生」復刻編集委員会)にはかなり詳しい来歴が記されている。
出版ブームの火付け役
31歳の青山虎之助は敗戦直後の昭和20年9月10日に文藝春秋社があった大阪ビルの7階(一説に6階)の大きなオフィスに新生社を設立し、評論家・室伏高信らを編集顧問として、戦後初の総合雑誌「新生」を創刊した。「新生」という誌名は室伏がダンテの『新生』から命名したものである。200万円という豊富な資金にものをいわせて、400字詰原稿用紙1枚が2円か3円だった時代に30円という破格の稿料を用意し、尾崎行雄、正宗白鳥らから原稿を受け取り、36万部で「新生」をスタートさせたのである。創刊号は即日完売であった。
この電撃的な即日完売が戦後の出版界に大きな衝撃と刺激を与え、雨後のたけのこのように出版社を大量発生させたのだが、では、青山虎之助は噂のように出版には無縁の人間だったのかというと、そうではなかった。
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source : 文藝春秋 2024年4月号