「文藝春秋」が左翼バネを失い、大きな右旋回が始まる──
昭和12年7月7日午後10時40分頃、盧溝橋がかかる永定河畔で夜間演習中の歩兵第一連隊第三大隊(大隊長・一木少佐)に向かって何者かにより2発の銃弾が放たれた。点呼したところ、1名の兵士が行方不明と判明したので、一木大隊長が北平(北京)にいた牟田口連隊長に連絡を入れた。これに対し、牟田口大佐は「戦闘準備を整えたる後、営長(盧溝橋の)を呼び出し交渉すべし」と応じ、宛平県(盧溝橋)城内での失踪兵の捜索を命じた。失踪兵はやがて無事発見され、中国側へも連絡がなされたので、事件は一件落着となるはずだった。ところが、そうはいかなかったのである。
「当初は兵の捜索が目的であった宛平県城への入城が、いつのまにか犯人の捜索へと変化したことから、この失踪事件は単なる発砲事件を重大化、複雑化させる要因となった」(岩谷將『盧溝橋事件から日中戦争へ』東京大学出版会)
「北支事変」と呼ばれたこの衝突事件に対して「文藝春秋」の反応は素早かった。「特輯 凉風讀本」と銘打たれた8月1日発売(7月18日印刷)の8月号に、小室誠「風雲急を吿ぐる北支の形勢」、藤枝丈夫「北支事變と抗日運動の歬途」という緊急記事を載せ、城南隠士による名物コラム「政界夜話」でも北支事変に対する近衛内閣の姿勢を論じているからである。ひとことでいえば、小回りがきく誌面ではきわめて迅速に北支事変勃発に対応していたのだ。
では、その論調はというと、中国側の抗日姿勢と挑発はたしかに許し難いが、中国と全面戦争になるのは得策でないとする穏当なもので、煽情的な内容は少なかった。「編輯後記」も「我々は徒らなる興奮に陷らず靜かに事件の眞相を正視し、正しき時局認識を持たねばならぬ」と冷静さを保っている。この段階ではまだ「暴戻(ぼうれい)支那を膺懲(ようちょう)す」というタカ派的論調は現れてきてはいなかったのである。
だが、読者たちの反応はいささか違っていた。そのことは文藝春秋社の発行するもう1つの雑誌である「話」9月号の投稿欄「支那へ与へる日本人の言葉」にはっきりと見ることができる。典型的なものを挙げてみよう。
「愛知 加藤義春(官吏)
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source : 文藝春秋 2023年12月号