一万田尚登 自分の車椅子を押す妻の最期を看取った

一万田 安城 一万田尚登の娘婿
ニュース 政治

昭和21(1946)年6月、18代日銀総裁として戦後経済の安定化に尽力し、総裁辞任後は蔵相として政界入りした一万田尚登(いちまだひさと)(1893―1984)。戦後復興を金融経済から支えた功績は広く世に知られているが、その陰で誠子夫人とともに女性の社会進出や教育に力を入れてきた。女性交流の場としてスタートした総合クラブ「クラブ関東」は、尚登氏が発起人となり、最後まで携わった役職であるが、誠子夫人はその催しに、家族を連れて参加、クラブの運営を盛り上げた。安城氏は娘婿にあたる。

 父母は昭和に生きた明治生まれの世代です。今の日本は、明治維新や第二次大戦後にも匹敵する出直しを模索しなければならない困難な時代に直面しています。ちょうど父母はその困難な時代を生き抜いてきたわけです。父は日本銀行総裁として、敗戦で疲弊しつくした世の中の一日も早い再興という役割を得て、日本のため、日本人のためという判断を、常に私事に優先して生きた一生でした。母はその父を支えて、共に混乱を信念を持って切り開いてきた人たちであったと思うのです。そこには国家、国民の利益を私の利益に優先する当然の発想があり、そうしたことが、ふたたび求められている時代であるのかなと思っているところです。

一万田尚登 ©文藝春秋

 家族として改めて振り返ると、父は金融マンとしての本来の仕事の他、教育に特に力を注いでいました。多くの大学の設立や運営に携わり、それも今後の日本を支える土台として、女性の教育に多くの関心と努力を払ってきたことが思い出されます。夫唱婦随が当たり前だったこの世代の父が、女性の将来という視点を持ちえた背景には、母の強い影響があったのでしょう。

 外では厳しかったであろう父は、家庭でもその威厳を失うことはありませんでした。亡くなる前の十数年間は、神経痛のため車椅子生活を余儀なくされ、それでも体調の良いときは、ワイシャツにネクタイで夕食に臨むのを常としていました。それは子や孫が、じっくりと話を聞くいい機会だったのです。

母にも家族にも優しかった

 そんな父が「女性のためのロータリークラブ的な」クラブ関東を設立したのは、昭和25年のこと。当時は、家庭に引き籠もりがちな女性たちに交際を広め、教養を高めてもらおうという趣旨でした。その内容は堅苦しいものばかりではなく、運動会やクリスマスパーティ、映画鑑賞などの催しが主でした。そこに父と母はもちろん、家族全員で参加したのです。しかし、この時期、父はともかく、母も忙しかった。日銀総裁の父と共に、毎夜のように夫婦同伴のパーティに出席しなければならず、幼少の妻は「誕生日にも家にいない」と寂しく思ったほどです。

 それにしても夫よりも半歩下がって歩く明治女性が、西洋的パーティに出席してどれほどの気苦労があったことか。そんな労(いたわ)りが父をして女性の活動に関心を持たせるきっかけになったのではないでしょうか。

 昭和29年、鳩山内閣で大蔵大臣に就任、政治家になると、母は縁の下の力持ちに徹してました。妻によると、その頃の新聞記者は夜になるとやってくる。その数が半端じゃなくて、20人、30人と上がり込んで、紫煙で部屋の中が霞んで見えるほど。その応対は秘書官の役目でしたが、それでも誰彼なく暖かく迎え入れられるよう采配を振るうのは、母の重要な仕事だったのです。

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source : 文藝春秋 1998年2月号

genre : ニュース 政治