藤井君と引き分け

第81回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 社会

■連載「古風堂々」
第76回 失われた典雅な日本語
第77回 そして、ヘマはつづく
第78回 百助主義
第79回 落ちる人、落ちない人
第80回 紫外線いまむかし
第81回 今回はこちら

 小学校一年の時、焼跡に建てられた中央気象台官舎で将棋を覚えた。二歳下の幼稚園児、元雄ちゃん(後に世界銀行副総裁)にルールを教わったのだ。先生の元雄ちゃんに勝つようになってから将棋が好きになった。父方の祖父が将棋、母方の祖父が囲碁の田舎初段だったから夏休みに田舎へ行く度に教わったが、私には穏かな囲碁より切った張ったのチャンバラのような将棋の方が面白かった。歴史的にも囲碁の方は平安時代から皇族、貴族、僧侶、文人などの間で流行ったもので「琴棋書画」、すなわち琴を弾き、囲碁を打ち、書を認(したた)め、画を描くのは男女を問わず上流階級の嗜みであった。一方、現代の形の将棋は江戸時代の頃から庶民の間で大いに流行ったものである。足軽と百姓の血を引く私だけに将棋の方が性に合ったのだろう。

 小学生の頃は周りに相手がおらず、隣家のおじいさん(渋沢栄一の孫)と日曜ごとに三、四局ほど指していた。庶民の将棋は決して一局では終らないのだ。囲碁は陣取り合戦だから負けてもさほど口惜しくないが、将棋の方は自分の王様の首をとられるのだからトコトン口惜しい。必らず負けた方が「もう一局」となる。兄弟だと喧嘩になる。私は小学生の頃、三歳上の兄に駒を投げつけられたし、息子達に将棋を教えたら、負けた長男が将棋盤をひっくり返した。幼い谷川永世名人と五歳上の兄との間で普段から喧嘩が絶えないのを見た父親は、仲良く遊ばせようと将棋盤と駒を与えたのだが、喧嘩は余計ひどくなったという。兄に負けた弟が駒を投げつけたらしい。あの温厚な永世名人が投げつけたのだ。藤井聡太竜王は幼い頃、負けるたびに口惜しくて大号泣した。将棋に負けた口惜しさは尋常ではないのである。

 中学高校時代の私はサッカーや勉強に忙しく、年に数局しか指す機会がなかったが、大学に入ると毎週末、町の将棋会所に通った。一年生の秋には学内将棋大会で準優勝するほどだった。その後間もなく、腕試しに日本将棋連盟の将棋会館を訪れた。係の人に町では初段と言ったら、そばにいた小さな子と対局するよう言われた。こんなガキと、と心外に思いつつ始めたら軽くひねられた。奨励会(プロ棋士養成機関)に属する小学生だった。「大学で将棋が強いといってもプロの卵にかかればこのていたらく、ならば自分も学問の世界でプロになろう」と悟った。大好きな将棋、囲碁、マージャン、女性などすべてに踏ん切りをつけ、数学一筋に切り替えた。以降、女性に関しては十年後のアメリカで封印を解いたが、他には四十年間ほど手を触れなかった。

 五十代末、息子からインターネット将棋のことを聞き、毎晩一時間ほど、夕食後の腹ごなしに久しぶりの将棋を指した。大学院生、大学生、高校生の三人息子が私の後ろから応援し、時折好手を、しばしば悪手を教えてくれた。ある日の試合で、私が投了しようとしていたら、突然私の勝利が画面に宣言された。相手の持時間切れだった。負けを観念していた四人は、地団駄を踏んで口惜しがる相手の顔を想像するとうれし過ぎて、いつまでも笑い転げていた。女房が「いつまでバカ笑いしているの。ああ、この親にしてこの子あり」と慨嘆した。やがて仕事が忙しくなり半年ほどでこれも止めたが、後年、米長永世棋聖との対談で「インターネット将棋での私の成績は一六〇〇点ほどでした」と言ったら、「ほお、素人としてはお強いですね。二二〇〇点以上はほとんど若手のプロ棋士ですから」とほめてくれた。

 昨秋、私が館長を務める姫路文学館で、竜王戦第五局が行なわれることとなった。私は興奮した。コロナ禍で陰鬱に沈んだ日本を支えたのは、大谷翔平の超人的ホームランと二十一歳にして八大タイトル総なめという藤井聡太君の快進撃だったからだ。祖国の恩人を姫路に迎えるのは光栄である。ところが勝つことが大好きな彼は四連勝してしまい、姫路対局は消えてしまった。そこに急遽、対局中に食べる予定だった「勝負フルーツ」を食べに、立会人の谷川さん同行で来館することが決まったのだ。谷川さんとは四十年ほど前、二十一歳で名人位をとったばかりの彼と対談して、「この年齢でこの品格の高さ」と感嘆したことを覚えている。私は早速、二人に敬意を表わそうと、ミーハー女房を伴い馳せ参じた。文学館付属の、大正時代に建設された望景亭で、私は勝負フルーツを藤井君と並んで食べた。彼は、囲碁や将棋の世界を一変させたAIソフトで使われるディープラーニング、それを用い世界最強の囲碁棋士を破ったソフト「アルファ碁」、その作者デミス・ハサビスなどについて一通り知っていた。ハサビスがケンブリッジ大学の数学科学生だった頃、そこで三年ほど前まで教えていた私をお茶大の研究室に訪ねて来たことや、彼が同様の手法を応用し二〇二四年にノーベル化学賞に輝いたこと、などを話したら、興味深そうに耳を傾けていた。女房は谷川さんと向かい合い話を弾ませていた。この後、第五局予定だった対局室に移動した。美しい日本庭園に面した三十畳ほどの和室の、中央に置かれた部厚い将棋盤には駒が並んでいた。何十台ものカメラが並ぶ中、私と藤井君は谷川さんと愚妻を立会人として対局し、何と私は不世出の大棋士と引き分けるという金字塔を打ち立てた。藤井君8四歩、私7六歩と二手指した所で、私が「ここで止めましょう」と言ったからだった。この証拠写真を私は友人達に見せびらかし、「藤井君と引き分けた」と自慢した。誰もまともにとらなかった。対局者と立会人の四人がともに口を開けて笑っていたからだ。

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source : 文藝春秋 2026年2月号

genre : ライフ 社会