百助主義

第78回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 社会 教育 歴史

■連載「古風堂々」
第73回 交渉の心得
第74回 私のつまずき
第75回 メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン
第76回 失われた典雅な日本語
第77回 そして、ヘマはつづく
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 福沢諭吉は一八三五年、大阪の豊前中津藩蔵屋敷で生まれた。蔵屋敷とは藩の年貢米や特産物を販売するための倉庫兼屋敷である。福沢家のことを諭吉は、「足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級」と書いている。諭吉は時折筆を滑らせる。わが藤原家は足軽だ。諭吉の父百助は、千五百冊もの蔵書を有し儒学者と呼べるほどの人物だったが、ここでは不本意ながら会計係として算盤片手に銭勘定をしていた。諭吉の兄が手習い塾で九九を習ったというのを聞いた百助は、「九九など武士の子のすることではない」と怒り、塾を辞めさせたほどだった。せめて息子には銭勘定などさせたくないという思いの裏には、金銭は卑しいという考え、そして役に立たない学問こそ尊いという考えがあったのだろう。

 古代ギリシア以来、ヨーロッパでは中等ないし高等教育の中軸は、自由七科と言われる文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文学、音楽で、役立たずのオンパレードだった。こういった教育を受けたマケドニアのアレキサンダー大王は紀元前四世紀、ナイル河口の土地に新都市アレキサンドリアを建設し、ここに学問の都を作った。「父から生を受け、アリストテレスから高貴に生きることを学んだ」と語った大王が病死した後を継いだのは、大王と共にアリストテレスの元で学んだプトレマイオス一世で、ここに学術研究所ムセイオンを作り、世界各地から詩人、天文学者、数学者などを招いた。幾何学を体系化したユークリッドなどそうそうたる学者や詩人が、何の役にも立ちそうにない研究に打ち込んでいた。教養人が実用に役立つものを低く見るという傾向はその後も残り、十三世紀に創設された英国ケンブリッジ大学では、十九世紀後半になるまで工学部がなかった。役立つものは学問と見なされなかったのである。東大では今でも、文学部の学科順は哲学から始まり心理学、社会学で終わる。理学部は数学から始まり化学や生物で終わる。役に立たない方がエライのだ。アレキサンダー大王もケンブリッジ大も東大も百助主義なのである。

 私は小学校六年の頃に数学者になろうと決めたが、いざ大学に入ると、本当に数学科に進み純粋数学を一生続けるかどうかで迷った。数学はとりわけ魅力的に映ったが、専門書を開いてもその内容が人類の役に立ちそうには到底思えなかった。世界の天才秀才と渡り合うだけの才能が自分にあるのか、という不安もあった。悶々としていた頃、ポアンカレの著書で名文句に出会った。「真理の探究、これが我々の活動の目標でなければならない。これをおいて活動に値する目標はない」。ハイティーンの私はこの大数学者の小気味よい託宣にあっさりと目が眩み、「役に立つかなどどうでもよい、真理の発見こそが人類の栄光なのだ」と、夢心地のまま数学の世界に入った。数論を専攻するようになってからは、役に立ちそうにないが故に気高いとさえ思っていた。

 そんな折、文部省の教課審議会で作家の三浦朱門氏が、「妻(曽野綾子氏)は二次方程式を解かなくてもこれまで生きてこられた、と言っている」と発言し話題となった。まもなく二次方程式の解の公式が中学教科書から消えた。確かに中学や高校の数学はほとんどの人にとって役に立たない。ただ、これは他教科も同様で、私は中学校の理科でアンモニアはNH3とかフレミングの左手の法則とかを習ったが、すべて忘れても無事に生きてこられた。

 問題は「役に立つ」というのが極めてあいまいな言葉ということだ。恐らく中高の数学は主に大学で理系に進む人々、すなわち十人に一人位にしか役立たないが、これらの人々は、数学をふんだんに使った物理や、物理を使った化学、化学を使った生物などを用い様々の製品や薬品などを生み出している。すべての現代人は文明の恩恵に与っているから、数学は万人の役に立っているとも言えよう。

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source : 文藝春秋 2025年11月号

genre : ライフ 社会 教育 歴史