交渉の心得

第73回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 政治 経済 国際 歴史

■連載「古風堂々」
第68回 言葉は時を超えて
第69回 新旧メディアに踊らされぬために
第70回 ユーモアさえあれば
第71回 追憶の紀元節
第72回 壮大ないじめ
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 二十年余り前、大学院博士課程の入試で、歴史学専攻の口頭試験に駆り出されたことがあった。志願者は、十六世紀に羊毛産業によりロンドンに次ぐ英国第二の都市となった町の研究をしていた。私は彼女に質問した。「この町が二世紀ほどで凋落したのはなぜですか」「いろいろ原因はありますが、結局、この町に民主主義が根付いていなかったのが主因と思います」「江戸時代は民主主義ではなかったけれど、二世紀半も平和と繁栄が続きましたが」。学生は返答に詰まった。「封建主義は悪」というヨーロッパの歴史観に染まっているようだった。

 確かに産業革命以前のヨーロッパでは、地域により差はあるが、ほとんどの農民は領主や貴族に厳しく搾取される農奴としてどん底の生活を強いられていた。しかし、我が国の封建制度は全く異なるものだった。江戸時代には中期の頃まで農民の七割近くは自作農だった。その上、識字率はヨーロッパのどの地域と比べても段違いに高かった。平年並の収穫さえあれば飢える人はおらず、治安もよかったから旅を楽しむことさえできた。中世ヨーロッパでは劣悪な治安や疫病の流行により、巡礼と許可を受けた商人や旅芸人などしか旅はしなかった。江戸の町は衛生状態が良いため疫病も少なかったから、世界最大の都市だった。数学でも、十七世紀には天才関孝和がドイツのライプニッツより早く行列式を発見した。紳士道精神は近代ヨーロッパの誇りだが、日本にはよく似た武士道精神が鎌倉時代、恐らく縄文時代からあった。とりわけ文学で日本が千年余りの中世を通じ、全ヨーロッパを圧倒していたのは、その間に彼我で生み出された文学の質と量を比べれば明らかである。当時、ひっきりなしの戦乱や疫病で絶望的状態にあったヨーロッパは、十三世紀頃になりイスラム文明や、火薬、羅針盤、製紙などの中国文明を学び、ようやく十六世紀にルネサンスや宗教改革を終えたのだ。

 明治日本の教養層は、ヨーロッパが百数十年前に始まった産業革命により成り上がっただけの地であることを忘れ、その先進技術に目をくらませた。誇るべき日本の歴史をしっかり欧米人に伝えないどころか、ひたすら封建日本の後進性を強調し、文化文明を一から教えてくれた先生に対するがごとく、欧米をひたすら崇め奉った。外国人教師として東大で三十年近く教えたドイツ人医師ベルツは、こんな趣旨のことを書いている。「教養ある日本人は日本の歴史を恥じています。彼等に日本の歴史について尋ねると、ある人は『いや、何もかも野蛮なものでした』と答え、ある人は『我々には歴史はありません。我々の歴史は今から始まるのです』と断言したのです」。

 日本人の過剰な謙遜を知らない欧米人は、日本人の言うことをそのまま受け取り、自分達が蛮人の地日本に文化文明をもたらしたと信じた。そのため日本は野蛮国とみなされ、安政年間に治外法権を押し付けられ、関税自主権はなんと明治四十四年まで認められなかったのである。

 世界は今、トランプ米大統領の関税火遊びで大混乱だ。先日、花見に行った京都で、中年のアメリカ人夫婦に会った。私は五分間ほど四方山話で大いに笑わせた後、切り出した。「トランプをどう思う」「大嫌いだ。株価も暴落しちゃったし」「アメリカには天才が山程いるのに、どうしてあんな阿呆を選んだの」「まことに申し訳ない。世界中に迷惑をかけてしまっていて」。めったに謝らないアメリカ人がいきなり謝ったのにはびっくりした。

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source : 文藝春秋 2025年6月号

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