昭和21年の秋、1年余りにわたる北朝鮮での死と隣り合わせの放浪を経て、私達母子4人は無事満州から引き揚げてきた。少し遅れてソ連軍により抑留されていた父もシベリアに近い延吉から無事帰国した。故郷諏訪に戻った父は、全滅と諦めていた私達が生きて帰ってきているのを見て驚愕し、私達も絶望と思っていた父が突然現れたので腰を抜かした。一家はしばらく信州の母の両親の世話になっていた。運よく中央気象台に復職することとなった父は翌年初めに上京したが、私達母子4人は食料豊富な田舎で栄養失調の身体を癒してから半年遅れで合流した。皇居と日本橋川にはさまれた竹橋近くに中央気象台官舎はあった。焼跡に急造された粗末な木造が十数軒あり、私達が入ったのはその一つ、2軒長屋の一方で外壁は節穴だらけの10坪ほどの家だった。この官舎は部課長など幹部のためのものなのに、課長補佐の父が入居できたのは台長をしていた父の伯父藤原咲平が、故国に息も絶えだえたどり着いた私達を不憫に思い身びいきしてくれたからだろう。それをとやかく言う人は官舎に1人もいなかった。彼等のほとんどは東大教授を兼任していた咲平の愛弟子だったからだ。父と母は肩身の狭い思いをしていたそうだが、4歳になった私は朝から晩まで仲間とメンコ、ベーゴマ、釘刺しなどで遊んでいた。すぐにガキ大将となった。父が教えてくれた藤原家伝来の水車戦法のおかげだった。両腕を水車のようにぐるぐる回し鬼の形相で突進するだけだが、大ていの者は怖気づいて降参したのだ。後日母に、「お前が上司の子を泣かすたびに果物カゴを持って何度お詫びに行ったことか」と言われた。

家のすぐ南には、戦火を生き延びた直径30センチもあるイチジクの巨木があった。秋口に先が赤く割れた実を見つけると、私は真先に上までよじ登り、一番美味しそうなのは、引揚げの過労により体調を崩していた母のためにポケットに入れ、2番目、3番目、4番目はその場で食べ、それ以下は下で待っている仲間たちに落としてやった。食事のおかずは大てい味噌汁と沢庵だけで、時には御飯にしょうゆをかけて食べることもあった。父が空地の隅にトリ小屋を作り数羽のニワトリを飼い始めてからは栄養は幾分改善された。さんさんと降り注ぐ陽光以外に何もない焼跡の、家具のない家で私達は、皆が生きて帰り一緒に暮らす喜びに浸っていた。毎日笑っていたような気がする。父と母はまだ30代だった。ここでの4年半は今や私の最も輝かしい時代となっている。
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