失われた典雅な日本語

第76回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会 政治 国際 歴史

■連載「古風堂々」
第71回 追憶の紀元節
第72回 壮大ないじめ
第73回 交渉の心得
第74回 私のつまずき
第75回 メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン
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 我が国には五世紀頃まで文字がなかった。日本語はあったがそれを表す文字がなかったのだ。その頃、世界のほとんどの地域で文字はなかった。日本がかくも早く文字を持ったのは、漢字という立派な文字をもつ中国がそばにいた幸運による。持前の進取の気性でそれに飛びついた日本人は、その後一世紀ほどで漢字の音を借用して万葉仮名を産み出した。「いえ」という話し言葉を「伊江」と書いた。当て字である。平安初期になるとこの万葉仮名は面倒ということで、その一部を用いて片仮名を作った。伊からイを、江からエを、という具合だ。さらには万葉仮名の草書体を用いて平仮名まで作った。何と日本は表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の両方を持つ世界唯一の国となったのである。それどころか漢文の訓読を始めた。漢文の「読書」を「読ムレ書ヲ」と、レ点と送り仮名をつけて「書を読む」と読み、漢文の「借虎威」を「借ル二虎ノ威ヲ一」と書き「虎の威を借る」と読み下した。訓読とは外国語(漢文)を母国語で読むという、世界のどこにも見られぬ途方もない着想である。こうして日本人の心髄である国語を守りつつ、より豊かなものとしたのである。

 また仏教が五五〇年頃に伝来するや直ちに飛びつき、その半世紀後には法隆寺を建て聖徳太子などが仏教にのっとった政治を行なった。さらに奈良時代には神仏習合、すなわち仏教をかつてからあった神道と結婚させるという、他国には見られない懐の深さを示した。余りにも幸せな結婚だったから今も神社の境内に寺があったり、寺の境内に神社があったりする。自然や祖先への崇拝を軸とした神道、すなわち日本誕生以来の伝統を守りつつ、輪廻転生や悟りの仏教を取り入れたのである。

 ところが幕末から明治にかけて、西洋文明の表面的華美に幻惑された日本人はすっかり変貌してしまった。日本文化は遅れていて価値がないと、それまでの伝統への敬意を忘れ、次々と毀損した。宗教においても、天皇利用で権力を手にした薩長政府は味をしめ、王政復古の実現を目指し神仏分離令を出した。これは廃仏毀釈につながり、多くの寺が壊され経典や仏像が燃やされた。神仏習合という千年以上の伝統は新政府の眼中になかった。知識階級は西洋の技術文明が進んだ理由は、わずか二十六文字の組み合わせという能率的な言語を用いているからと考え、国語国字の改革に取りかかった。慶応二年には、後に我が国の近代郵便制度を作った前島密が、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」なる建議書を提出した。民度を向上させるには漢字の使用を止めるべきという趣旨だった。明治初年には初代文部大臣となる森有礼が、欧米先進国と肩を並べるには英語を国語としない限り不可能、と唱えた。

 表意文字と表音文字の二種類を有する日本語を、表音文字だけにしようという動きも出現し、仮名派からローマ字派までが登場した。ローマ字派の中心人物は東大物理学教授の田中舘愛橘と田丸卓郎だった。中国の固陋なる習俗にすぎない漢字を廃し、外国人にも学習しやすいアルファベットにすべきという主張である。田丸は模範を示さんとローマ字で力学の教科書「RIKIGAKU」を著し岩波書店から出版した。頭脳明晰で聞こえた学者だったが、日本語ローマ字論は日本語の豊かさを消すもので、甥の娘(愚妻)を彷彿とさせる暴論である。これら改革派は国語国字が伝達手段であると同時に民族の心でもあることを忘れていた。

 戦後になっても国語国字改革は続いた。日本人の民度が低いのは学習の難しい漢字のせいだから撤廃すべき、というGHQの無知蒙昧な論に唯々諾々と従い、使用可能な漢字を極端に減らし、当用漢字(一八五〇字)とした。このため新聞などは、二〇一〇年に至るまで、ら致、破たん、残がい、あいさつなどと書いた。読める漢字と書ける漢字を一致させる、という国語学者の暗黙の了解の下で作られたから、こんな不様な日本語となった。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : ニュース 社会 政治 国際 歴史