日本語という「奇天烈」

大岡 玲 作家
エンタメ 読書 歴史

 先ごろ、『日本語はひとりでは生きていけない』というタイトルの「日本語論」を上梓した。少々変わったこの擬人化タイトルの趣意は、次のようなことになる。

 古代ヤマト王権時代に、日本は漢字を借字することで、やまと言葉を書き文字に落とし込めるようになった。そして、古代中国語である漢文を、国の上位言語として受容した。その後、江戸時代が終焉をむかえるまでの長きにわたって、日本の人々は漢文を「翻訳」し日本語化した漢文訓読を主軸に、日本の書き言葉を創りあげていったのだ。

 明治になると、こうした漢文・漢字とやまと言葉の分かちがたい絡み合いに、英語をはじめとする西欧語が割り込んでくることになった。受容と反発を織りこんで展開するこの三つ巴の運動によって、近代日本語が練りあげられていったのである。つまり、この国の書き言葉(実は話し言葉も無関係ではない)は、常にやまと言葉の上位概念に外国語を置きつつ、それへのカウンターパンチのようにしてみずからを創造してきたと言えるのだ。その意味で、「ひとりでは生きていけない」と捉えたのである。

 こうした独特の歴史を刻んだおかげで、日本語は興味深い特色をいくつも持つことになった。それらは、時に多層的な芸術性をこの国の文学に与え、時に厄介な面倒くささをもたらした。たとえば、中国語よりもはるかに日本語の音素が少ないことによって、漢字の読みに多数の同音異義語が生じたり、本来は漢字の「意味」である訓が、ひとつの漢字に対してむやみに多く出来てしまったり、あるいは逆にひとつの訓にいくつもの異字が当てはまってしまったり、といった不都合がその代表例だろう。が、その一方で、異質な二種類の言語が入り交じったために、31文字しかない和歌に深さと広がりを与える掛詞の世界が複雑性を増したりもした。

大岡玲氏 Ⓒ集英社インターナショナル

 ほかにも文字種に漢字・片仮名・平仮名の3種があるために「正書法」が成立しえなかったり、野放図な「あて字」(万葉仮名がそもそもあて字だ)の使用に困惑したり面白がったりという「痛しかゆし」が生じたり、漢字だけを拾って読んでもなんとなく文意がわかる漢字仮名交じり文という奇妙な文章が成り立ったり、と日本語の「奇天烈」はいくつもある。

 そうした欠点とも長所ともさだめがたい「奇天烈」の歴史を探るために、本書ではまず日本語の不都合に困惑や反感を抱いた人たちに焦点を当てた。たとえば、ロックの音調に日本語がうまく乗らないという不都合から、実に見事な日本語の怪物的歌詞を創造した桑田佳祐。近代日本語の完成者と言われながら、敗戦後、日本語を廃してフランス語を国語にしようと主張した志賀直哉。明治維新に際して、日本の言葉(日本語、ではない)を捨てて英語を公用語とすべきと論じた森有礼。彼らの困惑や憤りから出発し、はるか古代に根を持つ「奇天烈」の歴史をたどり直す、という、私にとっては冒険に近い試みに手を出したのだ。

 その道程には、いろいろな発見があった。漢字平仮名交じり文が成立していくごく初期の段階で、漢字が「概念」を担い、平仮名が「情緒」や「動的なイメージ」を表現するといった役割分担が生じた、という事実に気づいたし、また、紀貫之が目指した本邦初の「言文一致文」=『古今和歌集』の「仮名序」は、概念を平仮名で言い表そうとした果敢な実験だったということなどがそれだ。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : エンタメ 読書 歴史