気仙弁の〈昔〉

新井 高子 詩人
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 昨年、『おしらこさま綺聞』(幻戯書房)という詩集を出版した。東北弁と故郷の上州弁、さらにどこのものともつかない言い回しが入り混じった不思議な文体だが、幸運なことに、第6回大岡信賞(朝日新聞社主催)を授かり、その評語にも「作者独自の混成方言」とある。

 東北弁には師匠がいる。東日本大震災ののち、津波にみまわれた岩手県気仙地方、大船渡市に住むご年輩の女性、おんばたちのお知恵を借りて、同県出身の石川啄木の短歌を地元のことばに訳す企画を立てた。3年かけて編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社、2017年)にまとめたが、仮設住宅集会室などを会場にした約10回にわたる翻訳の催しを通して、大勢のおんばたちから口伝えに気仙弁を習ったのだ。

 もっともお世話になった一人は、昭和7(1932)年生まれの金野孝子(きんのたかこ)さん。QRコードが付いた前掲の編著書では、彼女の朗読も聴けるが、孝子さんご自身、詩の書き手で、気仙弁で綴った作品も多い。台所仕事をしながらこどもの頃を思い出すさまを記した詩「米研ぎするずど」は、こんな書き出しだ。

「米研(こめと)ぎ 始(はじ)めっと/たまぁに 昔(むがし)ァ来(く)るもんなァ/食(く)うものァ不足(ふそぐ)した 戦中戦後(せんつうせんご)/おらァ 学校生徒(がっこせーと)だった(米研ぎを始めると/たまに、昔が来る(、、、、)ものなあ/食べ物が不足した戦中戦後/わたしは学校の生徒だった――新井訳)」

『おしらこさま綺聞』

 藤井貞和さんの著作で、過去を表す古語の助動詞〈き〉〈けり〉は、〈来る〉が由来の一つだと読んだことのあったわたしは、〈昔が来る〉というくだりにハッとした。気仙弁は地方語であると同時に、古い日本語の記憶を残したことばであることも研究書などから知っていた。孝子さんにさっそく電話すると、ながらく地元の保育園に勤め、ハイカラ弁(おんばたちは共通語をこう呼ぶ)と気仙弁のバイリンガルであるその人は、こうおっしゃる。

「気仙弁で〈昔〉というのはね、それを語ると、しぜんに自分のなかに入って来る(、、)ものだったの。ハイカラ弁では昔に戻る(、、)というけれど、気仙弁では違う。それは来る(、、)もので、年寄りたちはよく〈昔(むがし)ァ来(き)たぁ〉と言ったんですよ。〈昔〉は、いつもそこにあるわけじゃないから。何かの拍子にやって来る。たとえば、仲良しでお茶っこ(茶話会)をして、若い頃の思い出話に花が咲けば、〈しばらぐぶりで、今日(きょう)ァ、昔(むがし)ァ来(き)たねァ〉と言ったもんで」

 ハイカラ弁、すなわち近代語の世界では、声は文字とともに在る。日記や歴史書、年表などの時系列の感覚がすでに暮らしに溶け込んでいるわたしたちにとって、回想とは時間を巻き戻すことだ。スマホをとり出せば、当たり前にたくさんの写真もあり、過去はいつもそこにある。

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source : 文藝春秋 2025年6月号

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