戦後のことで今でも懐かしく思い出すのは、1950年代の平野家のことです。その頃、我が家は常に10人以上が暮らす大所帯でした。父の平野威馬雄(いまお)がたくさんのハーフの子どもを引き取って、面倒をみていたからです。父は自身がハーフで苦労をしたことから、戦後の占領期にたくさん生まれたハーフの子どもたちの窮状を見過ごせなかった。父が子どもの時には、庭で遊んでいると、近所の人みんなが代わりばんこに、木の塀の節穴から父の様子を覗きに来て、見せ物みたいだったそうです。今はカラコンを付けたり、髪を染めたりして、向こうの血が入っているように見せるのが流行になっているけれど、昔は大変でした。

1953年に父は同じくハーフの文化人を集めて、ハーフの子どもたちの支援救済を行う「一九五三の会」(通称、五三会・レミの会)を立ち上げました。その活動の一環で、自宅を開放したんです。原資は自分たちの原稿料や寄付金でした。
フランス人形みたいな金髪の子だったり、黒いチリチリの髪の毛の子だったり、たくさんの泣きじゃくる子どもと母親が相談にきていました。みんな父親はアメリカの兵隊さんだから、アメリカに帰っちゃった。それで困ってうちの父を頼って来て、だいたいそのままうちで暮らし始めるんです。そんな子どもの中には「レミさんと一緒に料理作ったりして楽しかったね」と今でも言いあうような友達もいます。でも、当時は、みんな私の父を「お父さん」って呼ぶのが本当に嫌で嫌で(笑)。「私のお父さんでしょ!」って、父に文句を言うと、「そんなこと言うんじゃない。かわいそうなんだからいいじゃないか」って宥(なだ)められました。
考えてみると、母も本当にえらかった。全員分のご飯を作って、洋服や枕カバーを洗ったり、布団を干したり、重労働ですよね。それに、うちを出るときに、時計などの物を勝手に持っていっちゃう子もいました。「レミちゃん、また持っていかれちゃったわよ」なんてよく母がぼやいていました。
こんなに大変でも、母は父のやることには一言も文句を言いませんでした。
子どもたちがうちを出て大人になった時、また父を頼るんです。当時は就職するためには戸籍の書類を出さないといけないけれども、父親の欄が空欄。そこで、父が籍にいれて、みんな養子にしちゃった。だから、父が死んだ時に、松戸の家を売ろうとしたらすごい困った。養子がたくさんいるから、全員のハンコを貰わないと売ることができない。兄が何年もかかって集めてようやく売ることができました。

当時は楽しいというよりは、今考えても、めちゃくちゃな状況でした。大変なことがとにかくたくさんあったから、それだけよく覚えているのだと思います。
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