
■連載「古風堂々」
第74回 私のつまずき
第75回 メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン
第76回 失われた典雅な日本語
第77回 そして、ヘマはつづく
第78回 百助主義
第79回 今回はこちら
早朝の四時頃だったかも知れない。右隣のベッドで寝ていた女房の、「ド、ドーシタノッ」という断末魔のような鋭い悲鳴が響いた。その声で目を覚ました私は、自分がベッドから落ちていることに気が付いた。サイドテーブルの天板に頭をゴツンとぶつけ、時計や飲み水をなぎ倒し、膝から床にドシンと落ちたらしい。静寂の中を体重七十三キロが五十センチも落下したのだから、かなりの音がしたのだろう。夜中に大声をあげるとは無神経な、と思いつつ私はノロノロと立ち上がり、「落ちちゃった」と言いながらベッドに這い上がった。「大丈夫だった?」「当り前だ」「心臓発作か脳梗塞か、せん妄か発狂か昇天か、と思ったわよ。せっかく熟睡していたのに」。そう言うと女房は間もなく寝息を立て始めた。
確かに額を天板に強くぶつけたが、私はこう見えても中学高校時代、サッカー部の猛者だった。額はヘディングで鍛えてあるから、家具にぶつかる程度の衝撃は物の数に入らない。さらに鍛えに鍛えた下半身は転んだくらいではビクともしない。サッカー選手は転ぶのが商売なのだ。だから二十年前にスキー場で、新雪にスキー板の先が刺さり、頭から激しく雪に突っこんだが、数秒間だけ目を回し首を少々痛めただけで、雄々しく立上がるや麓まで美しいシュプールを描き滑り降りた。数年前には歩道の縁石を踏み外し道路に左膝を強打したが、十数秒後には立ち一キロ先の仕事場まで歩いて行った。翌日、紫色に内出血した膝のレントゲン写真をとった整形外科医が、「ひびは入っていませんがこれだけ強打してよく歩けましたね」と言った。最近も信州のゴルフ場で、幅二メートル程度の小川にかかった石橋を渡るのは屈辱と、橋の脇を男らしく跳び越えた。ところが着地点が斜面だったため、芝生に無様に転がった。この時も仲間に恥をかいただけで堂々とプレーを続けた。
正直に言うと、若い頃、ベッドからよく落ちた。二十九歳でアメリカへ行くまで、ベッドで寝たのはホテルに泊まった時だけだった。初めて落ちたのはミシガン大学にいた頃だ。一人暮らしのアパートで朝になって目を覚ましたら、床に毛布を抱いて寝ていた。剛胆な私はベッドから落ちたことに気付きさえしなかったのだ。しかも重力に身をまかせ落下する際に、沈着冷静にも毛布をしっかり抱いたままだった。この出来事を翌日、数学教室の同僚に話したら大いに感心された、というか呆れられた。「君達はベッドから落ちたことがないのかい」と反駁したら、異口同音に「もちろんないさ」と笑った。
結婚して女房に「僕はベッドから時々落ちるが君は」と尋ねると、「そんなことあるはずないでしょ」と一蹴された。アメリカで生まれ、帰国後も、ドイツに長く留学していた祖父が大正時代に建てた洋館に住んでいたから、私と正反対に畳で寝たことがほとんどなかったのだ。「何故落ちないの」と問い詰めたら、「なぜ落ちなきゃいけないのよ」と口答えし、「信じられない」と顔を横に何度も振った。「和室のない洋館で育った君は大和魂に欠けるのだ。反省しろ。日本では奈良時代の頃から床に筵(むしろ)を重ねて寝ていた。欧米では土足で家に入るから床に寝られずベッドを作ったんだ。明治になって日本にも西洋からベッドが入ってきたが、床の不衛生な病院と軍隊でしか使われなかった。ベッドなど清潔観念の乏しい国々の産物なのだ」「ハイ、ハイ、日本が何でも一番です」。
女房では話にならんと、我が山荘を訪れたベルギー生まれのスタンフォード大学教授夫妻に質(ただ)した。両人とも「ベッドから落ちたことなど生まれてから一度もない」と笑いながら答えた。すかさず私が食い下がった。「誰でも寝返りを打つが、もう一度同じ方向に寝返りしたら必ず転落する。すべての西洋人が何度か落ちたはずだが」「そう言われると確かにそうだ。考えたことがなかったが、どうして落ちないのだろう」。教授はそう言うと口ヒゲをよじった。私が「もし西洋人がベッドから落ちないとしたら、寝返りのたびに意識して前回と逆方向に身体を回していることになる。西洋人の睡眠は浅いということにならないか」と言ったら、二人ともうなったままだった。
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