カレーハウスCoCo壱番屋・宗次德二 800勝2敗の店舗展開を成し遂げた“IBS”の哲学

第4回

松浦 達也 ライター
ビジネス 企業 働き方 グルメ

「厳しいご指摘のハガキをいただくと、直営店の鍵束を持って、その店舗に車を走らせてしまう。たとえ深夜であっても、いてもたってもいられません」

 現在、国内約1200店舗を誇る「カレーハウスCoCo壱番屋(ココイチ)」。その創業者である宗次德二特別顧問(77)の語り口はあくまで穏やかで上品だ。しかし淀みなくあふれてくる言葉には一切の妥協を許さない厳しさも窺える。

宗次徳二氏 Ⓒ文藝春秋

「私はすべての答えが現場とアンケートハガキにあると思っています。ココイチのテーブルには、メニューの横にアンケートハガキが据えつけられています。あのアンケートハガキを全店に導入したのは、1987年のこと。以来、私の朝はハガキを読むことから始まるようになりました。出社の打刻をするのが早朝の4時50分。誰もいないオフィスで、ときには60センチから70センチとなったハガキの山を1通残らず全て読むんです。もっと早くから出社することもありました。

 厳しいお𠮟りを受けた店には、A4判用紙にそのハガキと私自筆のメッセージを添えて、深夜早朝を問わずファクスで送っていました。厳しいご指摘をいただけることが、まじめにやっている社員やオーナーを守ることにもなる。クレームは宝なんです」

 クレームの中には直ちに対応しなければいけない指摘もあった。

「あるとき、『閉店時間前に店が閉まっていた』というハガキが届いたことがあったんです。岐阜県内の店舗でした。私は『そんなバカな!』と思いながら、自宅から約40分、車を走らせました。加盟店様のそのお店に着いたのは閉店10分前、確かに店は閉まっていました。

 エリアマネジャーを通じて事実確認をしたら、雨の日の営業中にお客様が1人も来店していない『ノーゲスト』の状態になったら閉店時間前でも店を閉めてしまう。そんな店舗運営が習慣になっていたようなんです。でも、5分でも10分でも早く店を閉めてしまったらお客様との約束を違えることになります。店長には善処を求めましたが、改まらなかった。結局、その店舗とはフランチャイズ契約の解除に至りました」

 愛知県清須市にあるココイチ一号店(現在の西枇杷島店)が開店したのは1978年のことだ。前身となった喫茶店のカレーが好評で、専門店を立ち上げた。すべてはそこから始まった。宗次は2002年に経営の第一線を退くまで24年間で国内外あわせて800店舗超の開店に関わったが、閉店したのはたった2軒のみ。800勝2敗。驚異的な勝率だ。なぜこれほどココイチの経営は成功したのか。その答えは、宗次がこだわり続けた「超現場主義」にある。

カレーは“家族の味”

「よろしければ、取材前にカレーをご一緒にいかがですか?」

 インタビュー当日、宗次は光沢のある生地のペンシルストライプのスーツを着こなし、取材現場である西枇杷島店に現れた。汗をかきながらカレーをかき込む筆者やカメラマンの横で、柔らかな声で「やっぱりおいしい」と、涼しい顔で優雅に、そしてあっという間に「やさいカレー、イカ(のリングフライ)トッピング」を平らげたのだった。

 ココイチのカレーは“家族の味”だ。

「なんと言っても、食べ飽きないんです。この味は新婚の頃、妻が作ったカレーが出発点。ココイチという会社の代を継いでもらったいまも基本的な味の組み立ては変わっていないはずです」

 喫茶店時代の出前では返された皿の状態を見て味のヒントとし、創業前には東京で1日10軒以上のカレーを食べ歩いた。机上の論を述べ、汗もかかないコンサルには一切頼らず、ひたすら客の表情を見つめ続けた。それも宗次の超現場主義だ。

 宗次は1948年、婚外子として石川県能登町に生まれた。

「生後間もなく尼崎市の児童養護施設に預けられました」

 3歳のとき、尼崎で雑貨商・貸家業を営んでいた育ての親に引き取られた。引き取られたときは、それなりに裕福な家庭だったが、養父が競輪にのめり込み、稼ぎをすべてギャンブルで使い果たすようになってしまった。みるみる財産を失い、養母が魚の行商で家計を支えた。だがその稼ぎさえも養父はギャンブルに突っ込んでしまう。食うや食わずの家計を支えていた養母は家を出た。

ロウソクで過ごした少年時代

「電気はずっと止まっていました。夜の明かりはロウソク頼みです。どうにもお腹が空いて、道端に生えていた雑草を食べたこともあります。毎日パチンコ店でシケモクとパチンコ玉を拾っては持ち帰り、シケモクは机代わりのりんごの箱の上に山積みにしました。いいモクをたくさん持ち帰ると父親が喜んでくれるんです。いい父親ではありませんでしたが、それでも喜ぶ顔が見たかった。あれが『超お客様第一主義』の原点だったかもしれません」

 この幼少時代の経験がココイチのサービスマインドにつながる「人の期待に応えたい」という気持ちを育んだのだろうか。そう問いかけると、一呼吸置いて宗次は言った。

「それは多分にあると思います」

 宗次が15歳のとき、養父は胃がんで亡くなった。当時、社員寮の賄い婦をしていた養母との2人暮らしが始まった。高校1年の春、ようやくアパートの部屋に電気が通った。

「母親の月給は2万円。バラックの6畳を月2000円で借りることになりました。ようやく電球の下で生活できるようになったんです」

 高校時代はアルバイトに明け暮れた。早朝には豆腐店、冬休みには米屋に住み込み、正月用の餅作りのアルバイトに勤しんだ。

「お米屋さんのバイトは中学1年生からやっていました。2学期の終業式が終わると大晦日までの1週間、お米屋さんの2階に住み込みです。機械が搗いたお餅をのし餅や鏡餅にして、配達をする。12歳なのに、朝6時から夕方5時まで働いていました。それでも、ついこの前まで道の草を食べていた身ですから、白飯がいくらでも食べられる現場が嬉しくて仕方がありませんでした」

 暮らし向きは楽ではなかったものの、電化生活が始まり、家には白黒テレビがやってきた。

「私もバイトの蓄えで、クラスメートからナショナルのテープレコーダーを譲り受けました。5000円と言われたのを1000円の5回払いの月賦です」

 最初に録音したのはNHKのクラシック番組だった。テレビの前にレコーダーを置いた。

「それまでクラシックなんてまるで縁はありませんでした。たまたま録音したのが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だったんです」

 後述するが、現在、宗次はビジネスの第一線を後進に譲り、クラシック音楽を志す人々を支援する篤志家として活動している。成長するにつれてクラシックの虜になっていったが、すべてはこのときのメンデルスゾーンがきっかけだった。

モーニングをやらない喫茶店

 高校卒業後、宗次は新聞の三行広告で見つけた不動産仲介会社に就職した。1972年に妻・直美と結婚。働きながら宅地建物取引士(宅建士)を取得し、翌年に独立。愛知県岩倉市の自宅の1階で小さな不動産仲介業を始めた。事業自体は順調に滑り出したが、個人の不動産業は「待ちの商売」で波が大きい。宗次は次第に安定した日銭を得られる商売を探すようになった。

「妻と相談するうちに、喫茶店はどうかという話になったんです。当時は個人経営の喫茶店の景気が良かった頃ですし、本格的な飲食店は難しくても、喫茶店で喜ばれるような軽食なら妻も上手でしたから」

 わずかな手持ち資金と地元信用金庫からの融資を得て、1974年、名古屋市西区に喫茶店「バッカス」を開業した。最初は不動産仲介会社の副業であった。

「初日、ドアを開けると同時に、たくさんのお客様が来てくださって。なんと楽しい仕事だろうって心が躍る体験をしてしまったんです。駆け出しの不動産業なんて、対面どころか電話すら鳴りませんから。その日に『もう不動産は畳もうかな』と思ってしまいました」

 当初、喫茶店は妻の仕事とするはずだった。

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source : 文藝春秋 2026年2月号

genre : ビジネス 企業 働き方 グルメ