小説、紀行、評論……今こそ多層的な司馬作品を読み直そう

没後30年 司馬遼太郎

辻田 真佐憲 近現代史研究者
エンタメ 歴史

いま知っておくべき論点を、専門家がコンパクトに解説する「文藝春秋オピニオン 2026年の論点100」。この人気ムックの記事を「文藝春秋PLUS」でも紹介します。

 司馬遼太郎は、昭和戦後期のサラリーマンを中心に幅広い読者を獲得した。戦国時代や幕末維新期に活躍した主人公などにみずからを重ね、歴史の教訓や日々の指針を求めるひとが大勢いたのだ。その人気を物語るように、全作品の累計部数は2億を超えるといわれる。

辻田真佐憲氏 ©文藝春秋

 だが、その著作はなかなか分類がむずかしい。史料を渉猟して知見を披露したかと思えば、いきなり余談として文明論がはじまる。中世を舞台とする物語を展開していたはずが、突如として昭和期の軍人批判へと跳躍する。ジャンル分けが徹底され、「これは研究、あれは小説」と整理されがちな今日にあって、司馬の著作をどう位置づけるかはいっそうむずかしくなっている。

 司馬自身は、しかし、そんな自身の著作の性格をよく自覚していた。代表作である『坂の上の雲』について「小説でも史伝でもなく、単なる書き物」だと述べていたことを歴史社会学者の福間良明が指摘しているが(『司馬遼太郎の時代』)、これはまた司馬の著作全体も言い表しているのではないだろうか。物語、紀行、評論などの要素を自在に取り込むその仕事ぶりは、茫洋とした「書き物」という呼び名がいかにもふさわしい。

 このような著作のありかたは槍玉にあげられもした。とりわけ歴史の専門家からは「あれは歴史書ではなく小説だ」と退けられることもしばしばだった。たしかに、歴史学の論文ではないかもしれない。だが、まちがいなく歴史のありかたのひとつではあるだろう。

 われわれは日常のなかで、ニュースや身近なできごと、史跡の看板や記念碑、SNSの投稿などを通じて、多種多様なかたちで無意識に歴史に触れている。それは「歴史とは何か」という問いや厳密な方法論を伴うものではないかもしれないが、むしろそれこそが歴史との日常的な関わりかたといえる。司馬の著作は一見すると複雑なようで、実際にはこうした人間の営みを的確に反映していた。それゆえに、多くの読者がごく自然に受け入れることができたのだろう。

 そもそも、歴史学がどれほど厳密さを誇ったとしても、「史実そのもの」に到達できるわけではない。歴史学の営みとは、現存する史料を突き合わせながら、こうであったのではないかという解釈を提示することにほかならない。そのため、多くの史料が失われ、語られることなく消えゆく記憶が想定される以上、「史実そのもの」から逸脱する可能性はつねに残る。逆に、あえて残されなかった記録について想像力を働かせて描く小説家のほうが「史実そのもの」に迫る場合もないではない。学問と文学のいずれが「真実」に近いかを、最終的に実証することはきわめてむずかしい。

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source : ノンフィクション出版 2026年の論点

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