新たな学問を拓いた多様性と探求心
動物行動学の元祖、ニコ・ティンバーゲン(1907〜88)の伝記である。科学とはどういう活動なのか、科学と社会の関係はどうあるべきなのか、多くの示唆に富んでいる。
ティンバーゲンはオランダ生まれ、第二次大戦後はイギリス、オックスフォード大学の教員として、多くの弟子を育成した。本書の著者も元教え子だが、『裸のサル』のデズモンド・モリスや『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスは、一般にも知名度が高い。

この伝記によると、動物の行動に関するティンバーゲンの「見方」は、20代半ばに従事したグリーンランドでの調査で培われたとのことである。現地のイヌイットたちの機械論的な動物観に大きな影響を受け、それが後に科学的動物行動学を確立する基盤となっていく過程が、詳細に語られている。感性も知性も柔軟な若い時期に、新たな世界を体験することの有益さは計りしれない。それは今でも同じはず。
大家となってのちの1973年、ティンバーゲンはノーベル医学生理学賞を受賞する。科学界の頂点に立ったわけだが、一方で彼は、学術論文だけでなく一般向けの記事も生涯にわたって執筆していた。数でいうと一般向けのものの方がはるかに多い。科学映画の制作にも熱心に取り組んだ。研究成果を専門家以外の人たち、とくに子供や若者向けに発信することは、科学者として当然の仕事だと認識していたのである。専門的な論文を書けば事足れりとする研究者が多い昨今、ティンバーゲンのこの姿勢には見習うべきところがあろう。
このように彼は、学術研究が社会の一部であることを常に意識していたのだが、晩年、人間を動物行動学の対象にしたことで、社会から激しい批判を受ける。その中には妥当なものもあったが、いわれなき誹謗中傷も多かった。人を生物学的に扱うことは、優生学や人種差別を支持することだ、お前はナチの手先だ、と非難されたのである。第二次大戦時ドイツに占領されたオランダで、ティンバーゲンは捕虜となって収容所で2年間過ごしている。その人に向かってナチの手先とは! 感情まかせのいい加減な誹謗中傷は、いつの時代もあるということか。

ニコ・ティンバーゲンの豊穣な人生は、単に古き良き科学者の姿として懐古されるべきものではない。今こそ、彼のような科学と科学者を目指す姿勢が必要なのだと思わされる。
「『今』と『未来』を見通す科学本」は村上靖彦、橳島次郎、松田素子、佐倉統の4氏が交代で執筆します。
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