アパティアという名の先進国病

日本人へ 第201回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 国際 歴史

 外国語で「アパティア」と言われると何やら深遠な精神状態でもあるかのように聴こえるが、所詮は「無気力な状態」にすぎない。

 アパティアとは「パトス」(情熱とか気概)を失った精神状態であり、どうせ何をやったって変わりませんよ、という想いが支配的になった状態を指す。

 だが、こうなった場合に恐いのは、それでも一歩を踏み出そうとする者に対して、寄ってたかってアパティストたちがつぶそうとすることにある。ただし、無気力集団なのだから、正面きっての反対はしない。そのやり方も意気地なく、消極的なサボタージュでつぶす。だからアパティア状態の改善は絶望的なのだが、2カ月ぶりにもどってきたイタリアは、日本に発つ前と少しも変わっていなかった。

 政府には、今なお自分たちは政党(パルテイート)ではなく運動(モヴイメント)だと主張する「5つ星(チンクエ・ステツレ)」が坐わっている。それも2年にもわたって与党なのだから、有権者の怒りと不満を代弁する「運動」と自称するからには動いていなければならないのに、少しも動いていない。この「5つ星」の現状は昨今とくに顕著な先進国の住民運動の典型にもなりうると思うので、権力を手にしたにかかわらず、なぜ機能できないかの理由は興味あるところだ。

 第1に、既成政党をぶっ壊す、を旗印にしてきたものだから、既成政党が以前に成した政策のすべてを拒否する想いに縛られていること。具体的な例だと、始めていたインフラ工事でもまずはストップして、改めてその有効性を検証し直す、とか。古代のローマ帝国を思い出してしまった。

 カリグラは精神的に不安定で奇行の人として知られ、若いのに殺されたが、首都ローマに2本もの本格的な上水道を建設した皇帝でもあった。ローマ人はこの悪帝は殺すことで排除したが、彼が始めていた水道工事は継続したのである。

 ネロも悪帝の名に恥じない男だったが、良いこともしている。その最たるものが、アルメニア王国をローマの同盟国にしたこと。あの時代のアルメニアは今ならばトルコの東半分に該当する。当時のローマにとっての最大の敵はメソポタミア地方が本拠のパルティア王国。アルメニアはそのメソポタミア地方に、北方からプレッシャーをかけられる地にあった。強大なパルティアの西進を阻止するには、アルメニアを味方にしておくメリットは大きかったのだ。アメリカが完全にトルコを味方にしていたら、イラクやイランにこうも手こずることもなかったのではと思えばわかること。

 ドミティアヌスも殺された皇帝の1人だが、彼が始めた「ゲルマニア防壁(リメス・ゲルマニクス)」も、後につづく5賢帝がそろいもそろって継続したという点では、ネロによるアルメニア対策とまったく同じ。ラインとドナウというヨーロッパの大河2つの源流地帯という、安全保障上では最も困難な地帯を丸々囲いこむという戦略は、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を北から保障する「防御線(リメス)」になっていったのだった。

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source : 文藝春秋 2020年3月号

genre : ニュース 国際 歴史