コロナヴィールスで考えたこと

日本人へ 第202回

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 国際

 コロナヴィールスの流行はいまだ先が見えていないが、いずれは終息するだろう。人類の歴史は流行病の歴史と言ってよく、いくらかの期間は置くにしろ、発生と終息のくり返しであったのだから。とは言え歴史上では、発生するのは後進国でそれが先進国に伝染してきて終息する、が常であったので前回のSARSも今回も発生地が世界第2の強国というのは、伝染病の歴史では異例になるのかも。

 現代では「検疫」の意味の世界共通語になっている「Quarantine」とは、もともとは中世ヴェネツィアの言葉で「40日間」を意味する「Quarantena」に由来する。ヨーロッパとオリエントを結ぶ交易で成り立っていたヴェネツィア共和国は、オリエントで疫病が発生したからといって国境を閉じるわけにはいかない。また、中近東への聖地巡礼をパック旅行化するほどの観光立国でもあったので、オリエントからもどってくる船には、オリエント産の物産だけでなくヨーロッパ人の巡礼客も乗っている。

 だがこの状態を放置しておくと、ヨーロッパの人口の4分の1は確実に死んだと言われるペストの大流行のくり返しになってしまう。人道上の問題だけでなく、経済的にも政治的にも大打撃をこうむりかねない。それで正確に言えば1423年、世界で最初の恒久的な疫病対策に着手した。

 疫病発生地から来た船や、1カ月もの長い船旅の間に原因不明の病因で病人が出た船は、ヴェネツィアに帰り着いても都心部への着岸は許されない。リドの運河は通って湾内には入れても、ヴェネツィアを象徴する陽光を浴びてバラ色に輝やく元首官邸(パラツツオ・ドウカーレ)も遠く眺めるだけ。船はただちに右に導かれ、湾内に数多くある島の1つに強制的に下船させられる。島の名はラヅァレットだが、この名を聴いただけで誰でも、「隔離のための島」とわかるのだった。船着場以外は高い石塀で囲まれているが、広さはあり緑にも恵まれているので、居心地は悪くはなかったろう。だがここで、「40日間」を過ごすのだ。ようやく帰国できたというのに40日間もの隔離。居心地の良さにも配慮していたのは、この種のプレッシャーも無視しなかったということだろう。隔離中も、ヴェネツィア内の病院からの医者の監視はつづく。もちろん、隔離される前に病状があらわれた人は別の、同じくラヅァレットという名の島に移されて病因の解明が行われる。その結果、疫病患者と判明した人はその島で治療され、他の病気の患者はそれぞれ専門の病院に送られて治療がほどこされる。

 今ならば波打ちぎわでの対策と言うのだろうが、人や物産の出入りを全面的に閉鎖することは許されないヴェネツィアのそれは、この面での先進国に恥じない完璧さだった。

 人道上の精神が高かった、からではない。都市国家として生れたヴェネツィアは常に人口が少なく、塩田から採れる塩以外は天然資源に恵まれていないので、人間の一人一人を「資源」と考えていたからにすぎない。近くにあるパドヴァにはイタリアでは2番目に古い大学があり、この大学の医学部とヴェネツィア内の病院は密接な協力体制にあったから、ヴェネツィアが長期にわたって医療水準では先進国でありつづけたのも当然だろう。ザヴィエルとその同志の若き修道士たちも、日本に布教に向う前にヴェネツィアの病院でインターンをしたのだった。

 しかし、これほどまでしてもヴェネツィアが、疫病に無縁でいられたわけではない。昔は色彩豊かだったのが、今では黒1色のゴンドラも、ある年のペスト流行で大量の死者を出したことを忘れないために、喪の色に変えたのが今につづいているだけである。また、聖(サン)ロッコの広い会堂全体は、天井も壁面もすべて、ペスト流行の怖ろしさを描いたティントレットの傑作で埋めつくされている。

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source : 文藝春秋 2020年4月号

genre : ニュース 国際