戦後初となった大相撲の「無観客」での開催。議論を重ねた末の日本相撲協会の決断だった。緊迫感さえも漂う15日間に相撲ライターが密着同行取材。 会場に潜入すると、静まりかえった場所に行司の声が響いていた……。
戦後初の「無観客開催」
浪速の地で、令和初となる大相撲春場所。コロナウイルスの感染拡大で通常開催をあきらめた日本相撲協会は議論を重ね、3月1日、無観客での開催を決断した。約650名の力士、約100名の親方、行司、床山、呼出しら約150名、若者頭、世話人も含めた協会員の合計は約1000名となる。「協会員のなかから1人でも新型コロナウイルス感染者が出たら中止」――。
あらゆる競技大会が中止や延期とされ、協会内の当事者たちの間でも賛否両論が渦巻いたが、まるで一か八かの賭けのように、大相撲春場所は決行された。
大相撲の長い歴史のなかでも戦後初の「無観客開催」。緊迫感さえも漂う15日間を追った。
3月7日 初日前 土俵祭
千秋楽までの無事を神に祈る意味のある「土俵祭」は、通常は三役以上の役力士が出席するが、今場所は執行部や審判部の親方たちだけで執り行われた。この日までに、専門家の意見を受けた大阪場所担当の“先発親方”らが、夜を徹して会場内を「ゾーニング」。協会員を“無菌状態”にするために、報道陣との接触を避け、それぞれの動線を区分けした。それは「俺たちはバイ菌扱いか」と報道陣が苦笑するほどの徹底ぶりで、支度部屋での取材はできず、代わりに柵を設け、力士と2メートル離れた“ミックスゾーン”での取材となる。
仮払い金として100万円
電車やバスなど公的機関での移動は禁止され、タクシーや自家用車での場所入りを通達されると、「このニュースで、うちの部屋にはタクシー会社の営業が3件も来た。タクシー代が1万円以上かかるんだよ」と、大阪市外に宿舎を構える親方が笑う。
仮払い金として100万円が各師匠に手渡されたが、奈良県生駒市、兵庫県尼崎市に宿舎を構える部屋のタクシー代は往復で約4万円近くかかるという。神戸市の山の上にある部屋では、おかみさんが15日間、力士たちを自家用車で送迎したという後日談もあった。
3月8日 初日
力士や親方などの協会員は1日に2度の検温が義務づけられ、37度5分以上の熱が2日間続いた力士は出場させない方針。報道陣も入館時は手指の消毒と検温が必須で、1度退館すると再入場はできない。
会場となるエディオンアリーナ大阪は、1階に正面玄関、アリーナ部分に設えた土俵は2階部分に相当する。土俵溜の勝負審判脇での撮影はできず、カメラマン席や記者席は3階で、左右2席ずつ、前後1列の間隔を空けて設定された。昨年までの大阪場所では、お茶屋(相撲案内所)が軒を連ね、案内するお茶子(アルバイトの案内係で、近大相撲部の新四年生がアルバイトをするのも恒例)や出方がせわしく行き交っていたが、1階正面玄関は封鎖され、エントランスは若い力士の休憩所に。“無観客開催場所初の取組”として土俵に上がった序ノ口力士が取材に応じ、「序ノ口の取組はいつもこんな感じなので……。今日は音も何も聞こえず、集中するにはいいと思った。なるべく3人1組でタクシーに乗るように言われていて、今日は行司さんと一緒に来ました。序二段の兄弟子の相撲が終わるのを1時間くらい休憩所で待って帰ります」。
会場入りはマスク姿
シーンと静まり返る中での土俵入りや取組は独特の緊張感が漂う。小兵の人気関取として、今、一番声援が多い炎鵬は、「やはり声援のないのは寂しいですね。闘争心が出なかったというか、当たり前のように感じていたけど、お客さんから力をもらっていたことがわかりました。この雰囲気に慣れていかないと……」と黒星を喫して戸惑いを隠せなかった。普段から口数の少ない遠藤は報道陣に声を掛けられても、これ幸いとばかりにスルー(結局15日間無言を貫く“無反応場所”となる)。
理事長渾身の挨拶
八角理事長による「初日協会御挨拶」は異例の形で行われた。幕内取組前に、審判部の親方や全関取が土俵周囲に並び、正面にあるNHKの中継テレビカメラと対峙。「急遽決まったことでリハーサルもしていない、一発勝負」だったという。日本に於ける大相撲の存在意義、強行開催の大義と覚悟をも盛り込んだ異例の挨拶は、4分30秒にも及んだ。
協会御挨拶も無観客
「初日にあたり、謹んで御挨拶を申し上げます。公益財団法人日本相撲協会は、社会全体でコロナウイルス感染症の拡大を防いでいる状況を勘案し、また、何より、大相撲を応援してくださる多くのファンの皆様に、ご迷惑をかけることはけっしてできないと考え、大相撲三月場所を無観客で開催させていただくこととなりました。本場所を楽しみにお待ちいただいておりました多くの皆様には、大変なご迷惑とご心配をお掛けすることとなりましたが、何卒ご理解を賜りますよう御願い申し上げます。また、コロナウイルスに感染した皆様には、一時も早いご回復をお祈り申し上げます。このようなお客様のいない本場所となり、力士にとっても気持ちを整えるのが難しい、非常に厳しい土俵となりますが、それでも全力士は全国各地で応援してくださっている郷土の皆様や、ファンの方々の歓声や声援を心に感じ、精一杯の土俵を務め、テレビでご観戦の皆様のご期待にお応えするものと存じます。古来から、力士の四股は邪悪な物を土の下に押し込む力があると言われてきました。また、横綱の土俵入りは、五穀豊穣と世の中の平安を祈願するために行われて来ました。力士の体は、健康な体の象徴とも言われています。床山が髪を結い、呼出しが柝(き)を打ち、行司が土俵を裁き、そして力士が四股を踏む。この一連の所作が人々に感動を与えると同時に、大地を鎮め、邪悪なものを押さえ込むものだと信じられて来ました。こういった大相撲の持つ力が、日本はもちろん、世界中の方々に勇気や感動を与え、世の中に平安を呼び戻すことができるよう、協会員一同、一丸となり、15日間全力で努力する所存でございます。何卒、千秋楽まで温かいご声援を賜りますようお願い申し上げ、御挨拶といたします」
理事長渾身の挨拶で、緊張感の張り詰める15日間が始まった。
3月9日 二日目
ご当地場所である勢は、寿司屋を営む実家にも顔を出さないままだという。「我々だけでなく、どの世界の人も一緒ですから仕方ありません。実家が近いのに遠いです(笑)」。
放送ブースやラジオブースも、音が漏れにくいようアクリル板で囲んだ仮設の小部屋を設営。館内にはカメラのシャッター音しか鳴らず、咳払いも気が引けるほどだ。「屁もできないですよ〜」と笑う力士もいるが、行司の声、呼出しの呼び上げの声がより響き、力士のすり足の音や息遣いまでもが細やかに聞こえる。「ヨイショ〜」の掛け声がない横綱土俵入りは、柏手と四股を踏む音だけが響き、厳粛かつ神聖に映る。
立浪部屋の序二段力士が初日夜に発熱、40度あることが報告され、念のためホテルで隔離されるも翌日は平熱に戻ったとのこと。
3月10日 三日目
大阪場所は“就職場所”といわれ、今場所で前相撲を取る新弟子は45人。通常の前相撲は3日目からだが、多人数の大阪では、A、B班に分けられ、二日目から行われる。
この日は大鵬の孫で“納谷四兄弟”の次男である鵬山が初土俵を踏んだ。中央大学出身で、卒業式後に大阪入りする予定だったが、式が中止となり、急遽大阪入りすることに。しかし公共機関の利用は禁じられていたため、母である大鵬の三女・美絵子さんが、8時間掛けて大阪まで車を運転して来たという。
お弁当がツイッターに
3月11日 四日目
収容人数が7000人強の大阪場所の場合、「割」と呼ばれる取組表の印刷は「通常では観客用に8000枚弱、維持員である“東西会”会員用約100名分、関係者用に1200枚と、1日に約1万枚弱を刷っていたけれど、今場所は関係者のみの1200枚だけ」(担当者)
理事長への取材も、対面ではなく番記者が理事長に電話をし、音声が聞こえるようにスピーカーに繋ぐ方式を取った。記者クラブ担当で、通常ならクラブ内に常駐する元大関琴欧洲の鳴戸親方は、報道陣との接触を避けて不在。入場チケットをもぎる係の親方衆は仕事がなく、館内3階に設えた席で取組を見守る。理事などの執行部の親方衆も幕内後半戦になると客席に現れ、マスク姿で土俵を見守った。
東日本大震災の起こった14時46分、各部署ごとに黙祷。
3月12日 五日目
35万人を超えるフォロワーを持つ日本相撲協会公式ツイッターで、力士が作る弁当が話題に。協会キャラクターの「ひよの山」のキャラ弁、豪華三段重ね、超特大おにぎりなどがファンを喜ばせた。
今場所は関取の付け人を務める下位の力士が、自分の取組を終えても部屋には戻れず、時に10時間近く館内に滞在することになる。そこで朝乃山の付け人を務める序二段力士のために、高砂部屋の兄弟子が無骨な弁当を持たせたことから、各部屋に弁当の持ち込みが伝播した。当の兄弟子は「どんどんオシャレでカラフルなキャラ弁が増えて、うちは焼き肉や唐揚げなど茶色ばっかり。自分は彩りなんて考えられなくて……」と気に病むが、師匠の高砂親方(元大関朝潮)は、「相撲取りらしくていい。弁当作るのが仕事じゃないぞ!」と豪快だ。
初日から連敗中だった髙安が、前日の鶴竜戦で左脚を負傷し、休場。対戦相手の朝乃山が不戦勝で5連勝とし、剣翔が休場した碧山も5連勝。白鵬も勝ちっ放し。
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source : 文藝春秋 2020年5月号