夏に引っ越すことにした。11年ぶりの引っ越しだ。今度の部屋はいまの部屋よりずいぶん広い。友人に間取り図を見せると、ひとりで住むには広すぎるという。さびしくなるかもよという。でも、いまよりもっと狭い部屋に住んでいたとき、いまよりわたしはさびしくなかったかというと、そんなことはない。さびしいという気持ちが、ひとひとりが空間に占める割りあいに関係してくるというならば、棺桶のなかがいちばんさびしくないということになる。
これまでに暮らした住居でいちばん広かったのは、フランス西部、ロワール川の河口の街に建つアパルトマンの一室だった。暮らした、といっても2ヵ月間の期限つきで、貸し出されていただけなのだが。そのアパルトマンは運河のほとりに建っていて、外壁はかわいらしいミモザ色に塗られているのに、遠目に見ると呪われた古い要塞のようだった。なかには新宿高島屋を思わせるガラス張りのエレベーターがあり、玄関ホールにはカンディンスキーの絵のレプリカが飾ってあった。
ライター・イン・レジデンスのプログラムに申込んだわたしは、事務局所有のその部屋で、2ヵ月、好きなことをして自由に暮らすということになっていた。最初に案内されたときは、「広すぎる」と思った。リビング、仕事部屋、主寝室、客用寝室、キッチン、バスルームに加え、玄関からリビングまでのあいだにも、6畳ほどの用途不明の空間がある。東京で借りているワンルームの一室が、まるごと10個は入ってしまいそうな広さだった。加えてどの部屋も、廊下とドアで互いにしっかり隔てられているものだから、ふだん料理も仕事も睡眠もぜんぶ同じ部屋ですませているからだのふるまいを、大きく変えねばならなかった。ここではいつものように、ちょっとくたびれたからといって仕事机からベッドに直接身を投げ出すことはできず、休むにもまず、己の足でしっかりと床を踏み、部屋の移動をしなくてはならない。
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source : 文藝春秋 2020年5月号