ソ連体制下に生まれた大ベストセラー/『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ

ベストセラーで読む日本の近現代史 第67回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ライフ ロシア 読書 歴史

 2月8日、北海道新聞の渡辺玲男記者(前モスクワ支局長、同志社大学神学部の後輩)から、「母・侑子が本日未明、入院先の病院で体調が急変し亡くなりました」とのメールが届いた。安井氏が亡くなられたことは、各紙でも報じられた。

〈(訃報)ロシア文学者 安井侑子さん/(やすい・ゆうこ=ロシア文学者、神戸市外国語大名誉教授、本名・渡辺侑子=わたなべ・ゆうこ)八日、多臓器不全のため死去。八〇歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は東京外国語大名誉教授の夫渡辺雅司さん。/ソ連との国交回復か三年後の一九五九年、お茶の水女子大を中退しモスクワ大文学部に留学。スターリン批判後の「雪どけ」の時代に七年間滞在し同大を卒業。その間、アフマドゥーリナやエフトシェンコら著名な詩人、作家らと親交を深めた。/主な著書は「青春-モスクワと詩人たち」「ペテルブルグ悲歌 アフマートワの詩的世界」など。ブルガーコフの名作「巨匠とマルガリータ」を初めて邦訳するなど、現代ロシア文学の多くの作品を日本に紹介した〉(「東京新聞」2月10日朝刊)

 安井侑子氏と夫の渡辺雅司氏は、筆者の人格と思想の形成に強い影響を与えた知識人だ。筆者が同志社大学神学部と同大学院神学研究科に在学していたとき、渡辺氏は法学部教授でロシア語を教えていた。安井氏は同志社の非常勤講師をつとめ、ロシア語講読を担当していた。安井氏の受講生は筆者だけで、チェーホフの『子犬を連れた貴婦人』を読んだ。

モスクワ留学した安井氏

 安井氏のお父さんの安井郁氏(1907〜80年。戦前・戦中に大東亜国際法を提唱した国際法学者。戦後は占領軍によって公職追放、法政大学で国際法を教えるとともに原水爆禁止署名運動を組織化した)が1958年にレーニン平和賞を受賞した際に、当時、お茶の水女子大学に在学していた侑子さんが通訳として同行した。フルシチョフ・ソ連共産党第一書記とお父さんが面会したときに安井氏が「モスクワで勉強したい」と言うと、フルシチョフはその場で留学受け入れを決定したという。

 安井氏が留学した当時は、非スターリン化が積極的に進められている時期だった。筆者は、安井氏から体制は異なっていても、ロシア人と友人になることは可能だと教えられた。筆者が外務省に入省し、ロシア語を研修することが決まったときに安井氏から「イワン・コワレンコという人物に気をつけなさい。とても嫌な人です。『侑子さんはよくない仕事ばかりしている』と圧力をかけてきました。ソ連の負の面を象徴する人です」と言われた。コワレンコは、ソ連共産党中央委員会国際部の日本課長で、対日工作の中心人物だった。フルシチョフの推薦で、特例としてモスクワ国立大学への留学が認められたが、異論派(ディシデント)との関係を深め、そういう作家の作品を日本に紹介した安井氏は、ソ連共産党にとって好ましくない人物だったのである。

 ソ連体制が嫌った作家の1人がミハイル・ブルガーコフ(1891〜1940年)だ。『巨匠とマルガリータ』は、著者の生前に発表することができなかった。文芸月刊誌『モスクワ』の1966年11月号と67年1月号に検閲による削除を含む、不完全なテキストが掲載された。安井氏は、1969年に新潮社から『悪魔とマルガリータ』というタイトルで翻訳を上梓した。ロシア語の単行本がソ連で公刊されたのは1973年だったので、単行本化は日本の方が早かった。ちなみにロシアで本書は累計1400万部を超える大ベストセラーでロングセラーだ。神学部4回生の時、筆者が『悪魔とマルガリータ』を読んで感想を伝えると安井氏は「私の翻訳は検閲された定本に基づくので不十分です。水野忠夫先生の訳でもう1度、読んでみてください」と言われた。神学生時代にこの小説を読んだことが外交官になってロシア人相手に仕事をするときにとても役立った。

 モスクワの中心部にあるパトリアルシエ池で、雑誌編集長と詩人のイワンがベンチに座って話をしているときに、ヴォランドを首魁とする悪魔の集団と遭遇する。イワンがイエス・キリストを陰鬱な人物として描いた詩を書いたのに対して、編集長はイエスは神話上の人物で実在していないことを強調せよと指示する。そこにヴォランドが割り込んで、イエスは確かにいた、自分は見たと話すとともに、編集長がすぐに死ぬことを予告する。編集長はヴォランドの予告通り、路面電車に轢かれて死ぬ。その後、モスクワでは、奇怪な事件が起きる。ヴォランドは劇場で、10ルーブル札を天井から降らせる、フランス製の婦人服やバッグ類を提供するなどの魔術を披露する。目的は、ソ連体制になって人間の本性が変化したかどうかを調べるためだ。

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source : 文藝春秋 2019年4月号

genre : ライフ ロシア 読書 歴史