地方自治ジャーナリストの葉上太郎さんが全国津々浦々を旅し、地元で力強く生きる人たちの姿をルポします。地方は決して消滅しない――
イラストレーション:溝川なつみ
ミミズクの棲む異世界
このところの再開発で高層ビル化が進む東京都豊島区の池袋。地上に目を下ろせば、ごみごみとした繁華街が広がり、5月に人口1400万人を超えた東京都らしい街だ。区の人口密度は日本一で、7月1日時点では2万2233人だった。
だが、繁華街に面した法明寺(ほうみようじ)の墓地の角を折れ、細い路地を抜けると「空気」が変わる。雑司ヶ谷(ぞうしがや)だ。
「えらい田舎があるなぁ」
約35年前に法明寺へ婿に入った時、近江正典住職(63)はそう思った。高度経済成長期前の「昭和」を感じさせる風景だけではない。毎月の寺の寄り合いでは長老格の男性が「善ちゃん」「一(はじめ)ちゃん」と呼び合っていた。聞けば小学校の同級生だといい、「一緒に年を重ねられるなんて、どれだけ幸せなのか。都市化すれば『孤独な群衆』になると言われているのに」と嘆息した。
法明寺は810年の創建で、1312年から日蓮宗になった。住所は「南池袋」で「雑司が谷」ではない。実は「が」と書くか「ヶ」と書くかで意味が違う。地元で「雑司ヶ谷」と呼ばれるのは、徳川幕府の8代将軍吉宗が放鷹で立ち寄った際、「雑司ヶ谷村と書くべし」としたエリアだ。もちろん南池袋の法明寺も入る。JR山手線を外側に越えた西池袋や、文京区目白台の一部も含まれ、「ヶ」の範囲は、「が」で表示される住所よりかなり広い。
雑司ヶ谷といえば、鬼子母神(きしもじん)堂が有名だ。敷地は100メートルほど離れているが、法明寺のお堂の一つで、1664年に建てられた。
「夏目漱石ら多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園、作家の菊池寛の旧宅跡や三角寛の旧宅、明治建築の旧宣教師館もあります」と、ボランティアガイドの小池陸子(みちこ)さん(79)が説明する。23人で活動する「としま案内人 雑司ヶ谷」の会長だ。
「案内していると、地元の人が皆、挨拶をしてくれます。認知症の人も周囲が気を遣いながら見守っています。そうした人間関係ができたのは鬼子母神などのエリアが戦争で焼けず、江戸時代からの路地が残ったからではないでしょうか。込み入って車が通れないほど細い路地が多く、私も結婚してここに住み始めた頃には、迷って家に帰れなくなったことがあります。『雑司が谷』には信号が一つもないんですよ」と話す。
赤丸ベーカリーを営む赤丸尋智(ひろのり)さん(59)は「かといって、下町のようなガチガチの束縛感はありません。緩くて、優しい。ただ、誰もが僕のことを知っているのが嫌で、結婚後は1度、街を離れました。ところが、1年もすると寂しくなって、帰って来てしまいました」と笑う。
赤丸さんは4代目のパン屋だ。添加物に頼らず、基本に忠実なパン作りをしている。菓子パンはあんパンとクリームパン、カレーパンだけとシンプル。「おしゃれじゃありません。でも、この街の子供からお年寄りまで皆の腹を満たすパンを作り続けたいんです」と話す。こうした話が聞けるのも雑司ヶ谷らしい。
クルミ入りのあんパンを作る赤丸尋智さん(赤丸ベーカリー)
雑司ヶ谷がそのような街になった秘密は「御会式(おえしき)」にもあるようだ。
御会式とは宗祖の命日に行われる儀式だ。日蓮宗では10月13日を中心に催される。
だが、雑司ヶ谷のそれは極めて独特だ。法明寺での法会(ほうえ)とは別に、お堂の一つである鬼子母神堂を中心に盛大に執り行われる。「隣の家でやるようなもの」と近江住職は苦笑するが、そのせいもあって檀家だけでなく地域を挙げた大祭になる。「そもそも鬼子母神堂は雑司ヶ谷の人々が寄り合う会所(えしよ)になってきた歴史があるのです」と同住職は解説する。
和紙の花を飾りつけた高さ3〜4メートルの万灯(まんとう)を掲げて、団扇(うちわ)太鼓を叩きながら街を練り歩く。毎年10月16日から18日の夜に行い、最終日には4000人もが参加する。「3日間もやるのはここだけです。江戸時代には1カ月も万灯を出していたそうです」と近江住職は語る。
なぜ、こうまで熱くなるのか。
「カーニバルの要素が強く、太鼓が聞こえたら体が自然に動いてしまいます。小中学校では教室がシーンとした時、誰かが太鼓のリズムで机を叩き始めると皆に広がり、先生に叱られるのが常でした」と、赤丸さんが目をキラキラさせて振り返る。
町会や仲間で結成した21の講社(こうしゃ)ごとに参加するのだが、飛び入りのような人も歓迎する。「太鼓一つ持っていれば、GパンにシャツでもOK。一緒に太鼓を叩いたら、もう昔からの仲間みたいになってしまいます」と近江住職の目も輝く。
講社の代表が集まる御会式連合会は、毎月定例会があり、誰でも出席できる。「半分は御会式の話題ですが、半分はあの店が改修するとか、こんな悩みがあるとかの地域の話です。人間関係やコミュニティはこうした中で形成されてきたのでしょう」と近江住職は分析している。
御会式の最中に火事が起きた年があった。「火元の隣のステンドガラス屋の主人も御会式に出ていて、慌てて帰ったのですが、貴重な本がたくさん水浸しになりました。途方に暮れていた時、講社の仲間が手伝いに来ました。誰かが『紙を挟んで冷蔵庫に入れたら乾く』と言い出し、全員が少しずつ持ち帰って冷蔵庫に入れました。主人は8年ほど前に雑司ヶ谷に来たばかりだったのですが、『ここに住んで本当に良かった。子供の時から一緒にいるような付き合いをしてくれた』と伝えに来てくれたんです」と近江住職は話す。
御会式の夜、孤独死した人の遺影を万灯の前に飾り、偲ぶ会を開いた講社もある。「都市の孤独」とは対極の世界がここにはある。
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source : 文藝春秋 2020年9月号