島根県益田市匹見町

ルポ・地方は消滅しない 第46回

葉上 太郎 地方自治ジャーナリスト
ニュース 社会

地方自治ジャーナリストの葉上太郎さんが全国津々浦々を旅し、地元で力強く生きる人たちの姿をルポします。地方は決して消滅しない――

200622_島根県イラスト
 
イラストレーション:溝川なつみ

クマの中で生きる

 人の背丈ほどの群草を7人がかりで刈り払うと、トタンに囲まれた小さな敷地が現れた。

 養蜂業を営む近藤純一さん(77)が悔しげに語る。「ここにミツバチの巣箱を置いていたんです。甘い香りを嗅ぎつけるのか、据え付けるとすぐにクマが現れます。町内には同じような敷地が他にもあり、昨年まで2年連続で約1200箱分の蜜が全て食べられてしまいました」。

 島根県益田市の匹見(ひきみ)町。益田の中心部から車で1時間ほどかかる山深い土地だ。2004年に市に吸収合併されるまでは単独の町だった。

 近藤さんは大分県の国東(くにさき)半島に住みながら「転地養蜂」を行っている。花を追い掛けて北海道から鹿児島まで1年がかりで巣箱を移すのだ。毎年6〜9月頃に訪れる匹見は重要な拠点で、「農薬など無関係な山で、トチ、ハゼ、クリ、カキなど約10種類の花が次々と咲き、素晴らしい蜜が集まります」と話す。

 匹見にはかつて、他にも養蜂業者がいた。「しかし、クマの被害が大きくなるなどしてやめてしまい、私も今回は廃業を考えたほどでした」と、近藤さんはため息をつく。

 市役所の匹見総合支所に相談すると、村上正文さん(62)らが対策に乗り出した。村上さんは旧町時代からの職員だ。獣害対策のエキスパートとして、定年後も再任用で残っている。地元では手練(てだれ)の猟師としても知られている。

「近藤さんは市外の業者なので、私達も被害を知りませんでした。でも匹見の重要な産品です。それなのに、このままだとクマを里に呼び寄せる誘引物になりかねません。クマは人間に遭遇すると、たいていは逃げますが、蜜を目の前にした時は非常に危険です。大好物なので奪われると思い、人に向かって来ることがあるのです」と村上さんは説明する。

 県と協力して養蜂場を調べると、獣害対策が不十分だったと分かった。そこでクマが草に隠れて接近できないよう敷地の周囲を刈り払い、8000ボルトの電気柵で二重に取り囲むなどした。

 さすがプロの対策は違う。去年までは巣箱を置くとすぐ、クマに侵入されていたが、今年は設置から約3週間が経つというのに、6月下旬までの被害はピタリと止んでいる。

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養蜂場に電線を引く村上正文さん(左)

 匹見は古くから拓けた地区だ。人が定住したのは2万3000年ほど前とされる。縄文時代を中心とした遺跡が約40カ所もあり、「縄文銀座」と呼ばれている。戦後もしばらくは林業で栄えた。だが、山仕事以外の産業に乏しく、豪雪にも見舞われ、高度経済成長期になると一家を挙げて都市部へ移住する「挙家(きよか)離村」が相次いだ。このため1960年に約7200人あった人口は、今年5月末までに約1000人に減った。

 70年に過疎法が制定された時、当時の町長が全国の先頭を切って立法に向けた運動を展開したことから「過疎発祥の地」と言われる。

 獣害は山仕事が減り、過疎化が進むに連れて深刻になった。人と獣(けもの)の世界の境界が曖昧になったからだ。

 クマについては国策も影響した。

 日本には、北海道にヒグマ、本州・四国にツキノワグマが生息している。ツキノワグマは91年、当時の環境庁が作成した日本版レッドデータブックで、5地域の個体群に絶滅のおそれがあるとされた。島根・広島・山口の3県にまたがる「西中国地域」の個体群もその1つだ。

 これを受けて92年、猟友会が狩猟を自主規制した。94年には環境庁が狩猟を禁止した。
「途端にクマが里に下りてくるようになりました。人間への恐れが薄れたのです」。村上さんが解説する。匹見はそもそもクマの生息域に集落が点在しているような町だった。

 旧町役場では2000年から、山裾に電気柵を張り巡らせる集落への補助を行い、集落ごとに何キロメートルもの管理を行うようになった。

 それでもクマは出る。「川の中を歩いて中心街まで来るようです。近年も駐在所の裏の家で壁板が壊されました。壁の中に巣を作っていたハチの蜜が狙われたのです。バーベキューをしていて、クマが顔をのぞかせた家もあります。夜、通りで自転車を押して歩いていたら、飛び出してきたクマにぶつかられた人もいました」と村上さんは話す。

 昨年は100件の目撃情報が寄せられたが、実際の目撃数ははるかに多いという。人に危害が及ばないようなら、総合支所に連絡しないのだ。“クマ銀座”ならではだろう。

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匹見町の中心街。ここにもよくクマが出る

 匹見総合支所職員で道路管理のために1日に200キロメートルをパトロールする大賀惇浩(じゆんひろ)さん(63)は昨年6頭を目撃した。「こちらに気づくと、慌てて来た方向に逆戻りして逃げていきます」と話す。同じく職員の田中一史さん(54)は「朝、田んぼの水の見回りに行くと、畦(あぜ)道に足跡が付いています。だいたいは夜にしか出ないし、出たんだなと思う程度です」と淡々としている。

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source : 文藝春秋 2020年8月号

genre : ニュース 社会