京都御所の北、今出川通をはさんで冷泉家はある。ここに移って来たのは慶長11年(1606)、400年前のことだ。
秀吉は応仁の乱で荒廃した京の街を再編成し、聚楽第を築き、大仏を造営した。その一環で天皇の住居、すなわち御所を整備し、その周辺に乱を避けて全国に散り散りになっていた貴族の末裔、この時代には公家と称した家々を呼び戻し、公家町を形成した。この事業は家康にも引き継がれ、上京には内裏を囲むように、公家屋敷が建ち並んだ。冷泉家もこの流れの中に、屋敷を構えたものである。
敷地750坪程の邸宅は天明8年(1788)の大火で焼失したが、翌々年再建してそのまま明治維新を迎えた。
京都の人にとっての維新は、当り前にあった御所が東京に移ったことを示す。
天皇にお供して、あるいはしだいに、公家衆達は有職故実を捨てて東京に移り、維新政府の要人となっていった。しかし冷泉の家は移らなかったのである。
公家屋敷として残ったのは、冷泉家ただ1軒のみ。昭和57年(1982)には国の重要文化財となり、ほぼ同じ頃に冷泉家時雨亭文庫という冷泉家の伝統と文化を継承する財団法人が成立し、今では公益財団法人になっている。
江戸時代、冷泉家には邸を囲むように8棟の土蔵があった。現在は5棟しか残っていない。そのうちの1棟は御文庫(おぶんこ)と呼ばれ、俊成卿定家卿以来の典籍を収納している。現在国宝5件、重要文化財は48件を数える。御新(おしん)文庫と呼ばれる蔵は、御文庫の江戸時代の写しを収めている。
他の3棟は、江戸時代の書跡や道具類で一杯。これが現存する5棟の蔵だが、元はあと3棟あった。
3棟は戦後すぐから、しだいに壁が落ち、屋根が漏りくずれて行った。収納しているものをとにかくプレハブを建て、押し込んだ。
長い年月でプレハブの耐久年数も限界に近づいていた。何とかしなくてはいけないのは、誰の目にも明白だった。
一昨年、久し振りに京都を台風が襲った。この台風で1棟のプレハブの屋根が飛んでしまった。万事休すである。
3棟の土蔵を再建したい。それは財団設立当初からの夢であった。
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source : 文藝春秋 2020年9月号