このコラムで、次に帰国したときは寺子屋をやってみたいと書いたのを読んだ人から、それならこんな感じですかと2冊の本が送られてきた。いずれも『君たちはどう生きるか』と題した2冊で、1冊は岩波刊行のワイド版文庫。つまり全部が活字。もう1冊はマガジンハウス刊行のマンガで、岩波版での吉野源三郎は「著者」だが、マンガになると「原作者」。活字とマンガはまったくの別物であることは、2冊とも読了した後で納得がいったのだが。
まずはと岩波版を手にとって驚いたのは、この作品の初出は1937年。しかも新潮社から出ていたということ。昭和12年だから私の生れた年だが、この年は日本にとって、以後つづく激動の時代の最初の年ではなかったか。日中戦争に突入し、日独伊防共協定が成立し、国民精神総動員運動が始まり、その余波か、東大教授矢内原忠雄の筆禍事件まで起きた年である。
その年に刊行されたのが、38歳だった吉野源三郎の書いた『君たちはどう生きるか』。新潮社も昔は骨があったのだと、それにまず感心した。
で内容だが、全体の構成が実に良くできている。文学でも芸術でも音楽でも、構成が良くできているという一事はすこぶる重要で、長年にわたって多くの人々から愛されてきた作品のほとんどは、構成が良くできているのだ。個々の文章や色彩や音色の美しさよりも、重要なのは構成。作品に接する人の心の流れを、強制的にではなく、ゆるやかに自然に導くという感じでリードしていくのが、構成によって生れる力なのだから。
すべては原文のままと銘うった岩波版と、それがいかに名作の名の高い作品でも原作にすぎないとしたマンガ版の2冊の、冒頭の導入部分を読みくらべてみてほしい。この2冊のちがいが、ひと目でわかるだろう。
マンガ版での吉野源三郎の紹介は編集者・児童文学者となっていたが、それは後の彼が雑誌『世界』の初代編集長であり、岩波少年文庫の創設に加わっていたからにちがいない。だが私には、この人の本質はあくまでも哲学にある、と思えてしかたがなかった。
哲学と言っても、大学で教える形骸化した哲学ではない。哲学者というよりも、哲学する人、つまり知を愛する人、と呼んだほうが適切な感じ。なにしろ、全編を通して説かれているのは「ものの見方」なのだから。それも、種々様々な見方がある中でそのどれにキミは心を魅かれるか、と問いかけながら「見かた」を育成していくやり方で。「ものの見方」の成熟くらい、哲学が目指す目標もない。
もう一つ、微笑しながら感じた想いがあった。30代だった著者は「君たちはどう生きるか」を、プラトン作の『対話篇』、あそこでのソクラテスとまだ少年の弟子たちとの間に交わされた対話を、イメージしながら書いたのではないか、と。吉野版のオジさんはソクラテスで、コペル君は弟子。「どう生きるか」にいたっては、ソクラテス哲学の基本である。
しかし、この歳になってから読んだのだから、まだ若いオジさんや15歳のコペル君とまったく同じに考えられるわけはない。マンガ版のキャッチコピーは次のようになっていた。
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source : 文藝春秋 2020年10月号