国内1000店を超えるイタリアン。レストランのモデルは「教会」だった
<この記事のポイント>
▶︎ミラノ風ドリアは、1983年の発売以来、少なくとも年に10回は何らかの変更を重ねているという
▶︎正垣が店主として引き受けた父親の知り合いの「潰れそうなどうしようもない店」が、サイゼリヤの第一号店
▶︎サイゼリヤはチェーン化のため徹底した調理加工作業の合理化を断行。国内1000を超える店舗の調理場には包丁もガスコンロも一つもない
「最悪のときこそ最高なの」
イタリアンレストランチェーン「サイゼリヤ」がコロナ禍への対応の一つとして、レジでの接触機会と硬貨の取り扱い量を減らすべく、年間約2500万食を売る看板商品の「ミラノ風ドリア」を7月1日より税込み299円から300円に変更するなど全面的な価格改定をすると6月に発表した。1円、5円、10円硬貨の使用を減らし、取り扱い硬貨量の80%削減を目標に掲げる。
国内で約1100店舗をチェーン展開するサイゼリヤが店内メニューの差し替えやレジの設定、従業員マニュアルなど、たいへん手間のかかるはずの変更作業を一斉に断行して、このような改定策に打って出る辺りに、非常にシステマティックで科学的な企業風土を見た。現在、33都道府県にチェーン展開するほか、中国などの海外に約400店を拡大中で、年商は約1600億円を上げる。
ミラノ風ドリアは、1983年の発売以来、少なくとも1年に10回は、原材料や調理・加工など何らかの変更を重ねている。創業者で代表取締役会長の正垣泰彦は、「変えるのは簡単な理由からですよ」と真顔で話す。
「売れていれば変えたりなんかしない。売り上げの結果が数字ではっきり出るからね。売れなくなるのはありがたいよ。だから、どんどん改善して、よりおいしくなるんです」
正垣氏
東京理科大学の物理学科出身。年が改まれば75歳になる。話を聞いていると、素粒子に熱エネルギー、作用反作用、エントロピーの法則、ニュートリノ、ついには相対性理論と物理用語が次々に飛び出す。
少し紹介すると、グラスワインは白・赤ともに驚くことなかれ1杯100円である。しかも美味い。ランチのメニューでは、メイン料理に、前菜のサラダ、おかわり自由のスープバーが付いて500円と、なお徹底している。安かろう悪かろうの商品であったなら、国内で1000を超える店舗のチェーンになどなるはずがない。
「いまのコロナも不況もそうだけど、お客さんが来なくなったり、売り上げが落ちたりして、嫌なことがいっぱい起きるでしょう。そのときこそ、商品も働き方も改善しなきゃいけない。だから、困ったときこそ最高なわけ。ピンチはチャンスというでしょう。ピンチは、それまでの自分を変えるチャンスなんですよ。最悪のときこそ最高なの。自分が変われば、見える世界がまるっきり違ってくる」
工場を併設した本社を埼玉県吉川市に置き、都心には東京本部オフィスを構えている。その東京オフィスの小さな一室で、キャスター付きの背もたれ椅子に座って、両足をぷらんぷらんと子どものように揺らしながら、雑談でもするように独特の経営観が繰り出されてくる。数理学の教養を豊かに持ちつつ、「商品のコストなんて考えたことない」、「儲けようと思ったこともない」と、その語り口は融通無碍である。
やんちゃなガキ大将
兵庫県の中部にあった生野町(現・朝来市)に生まれる。正垣は「山奥を駆けずり回っていた」と回想する。
小学2年の10月、父の仕事の都合で東京・荻窪に転居する。関西との言葉の違い以上に正垣を戸惑わせたのは、東京は大人も子どもも総じて物静かで外面(そとづら)のいいことであった。
父の英夫は、知的障碍者の学校を運営したりしていた。慈愛あふるる篤志家のように思えるが、妻以外の女性との間に次々と子どもをもうけるなど、奔放で気ままな男であった。
母のとみえは、英夫に後妻として嫁ぎ、先妻の子、自ら産んだ泰彦とともに、夫が外で生ませた子まで引き取って、分け隔てなく育てるという、なんとも慈悲の深すぎる、クリスチャンでありながら神社仏閣でも掌を合わせる謙虚な女丈夫であった。
「おふくろは、『お父さんが悪いわけじゃない。わたしがいけないから。相手の女性にも申し訳ない』なんて本気で話す人だった。親父を恨んだことは一度としてなかったと思うね」
東京の小中学校時代、おとなしい都会っ子を従えるようにガキ大将となった正垣は、ときに警察沙汰を引き起こすやんちゃな問題児であった。
「道端の塀の向こうに柿が生(な)っているでしょう。みんなに食べさせてやりたいな、と思うと、自分のことなんてそっちのけで、庭に入ってのこぎりで切り倒しちゃう。友だちと麻雀を覚えて遊んでいると、みんな寒いだろうなと思って学校の灯油ストーブを持ってきたりして、しょっちゅう、先生たちに迷惑をかけてた」
己の利得を計算する前に、友だちを思いやって突飛な行動に出て、周りの大人たちが右往左往させられる。会社の採算を度外視し、客へより安く商品を提供することを宣言して、幹部たちが慌てふためく。そのようにして、正垣泰彦は生き、サイゼリヤは発展してきたといえるのではないか。なにより、友だちも、そして客も、驚きながら喜んで喝采した。
成績が芳しいはずはない。高校時代、数学と物理だけは得意で、文系科目が苦手であった。そこで、得意2教科と英語の3科目で受験できる東京理科大を受けて合格を果たす。
さまざまなアルバイトをして忙しく、ろくに大学へ行かなかった3年生の春、当時、自宅のあった新宿に、1年中、アルバイト募集の貼り紙を出している食堂があった。気になって面接を受けてみると、仕事がきついので、みなすぐに辞めていってしまう、と店主は嘆く。納得して店をあとにするのではなく、「じゃあやってみるか」と常識とは反対の発想をするのが正垣泰彦という男なのである。「これが運のつきで、いまに至っちゃった」と笑いもせずに振り返る。
ビルの4階にある食堂で、みなが嫌がる皿洗いを率先して引き受け、閉店後には大きなバケツに5つほどにもなる生ごみを1人で1つずつ担いで1階まで階段を降りて運んだ。
大学にはろくに通っていなかったが、専攻する鉛の単結晶をテーマにした卒業論文は納得のいくものが書きたかった。4年生となり、店を辞めたいと申し出ると、コックや従業員から「どうか辞めないでくれ」と引きとめられる。働きぶりがそれほど認められていたのである。しかし、アルバイトをつづけながらでは、卒論を書くために必要な実験の時間をとることはできない。事情を明かすと、みながそろって、どこかで別の食堂を開いてくれたらそこへ移るから頼む、と頭を下げるのであった。
「それで、うちの親父に相談したら、知り合いがやってて潰れそうなどうしようもない店がある、というんで、じゃあやってみるか、と決まった」
火事から九死に一生を得る
その店こそ、千葉・市川にある、いまのJR本八幡駅に近い「フルーツパーラー・サイゼリヤ」という洋食店であった。商店街にあり、1階が八百屋で、狭くて急な階段を上らなければならない2階の店である。コックや従業員たちがそろってこの店へ移ってきた。1967(昭和42)年、正垣が店主として始めたこの店は今日のサイゼリヤの記念すべき第1号店である。
1967年創業の第1号店(現在、1階の八百屋は閉店)。
コックたちに店を任せて、自らは卒論に専念するつもりであったが、客が日に5人ほどしか訪れない。仕方なく、正垣は駅前でサンドイッチマンに立ち、チラシや割引券を配っては客を呼び込み、厨房にも立った。
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source : 文藝春秋 2021年1月号