破滅回避のため、青瓦台の密使が日本に送り込まれた
<この記事のポイント>
▶︎菅が首相就任後、心に決めた対韓外交の方針は「原理原則」だった
▶︎日韓関係破滅を回避すべく、韓国側は青瓦台の高官を2度にわたり日本に送り込んだ
▶︎北朝鮮問題ではお互いの利害は一致している日本と韓国。しかしそこに徴用工問題が引っかかっている
「ごね得は許さない」
官房長官時代、菅義偉の韓国への態度が明らかに変化した事件があった。霞が関官僚の一人は「あの事件以来、韓国案件を報告に行くと、もう韓国のことは聞きたくないと言われて往生した」と告白する。
事件は、文在寅政権発足から半年後の2017年11月14日未明に起きた。韓国検察が、朴槿恵政権時代に約1年間、駐日大使を務めた李丙琪・元国家情報院長を、国情院が大統領府に秘密資金を提供した疑いで緊急逮捕したのだ。李は菅の親友だった。
李が国家安全企画部第二次長だった1997年、韓国は外貨不足の危機(IMFショック)に見舞われた。支援を求めて日本を訪れた李を助けたのが、当時内閣情報調査室長だった杉田和博だった。16年後、官房副長官になっていた杉田は、駐日大使としてやってきた李と旧交を温め、上司の菅を紹介した。菅と李は意気投合し、1カ月に1度は食事を共にする仲になった。
その李が逮捕された。逮捕理由とされた秘密資金提供は、進歩系の金大中・盧武鉉両政権も含めて代々の慣習として行われてきたものだ。検察が李を緊急逮捕したのも、取り乱した李が自殺する恐れがあったからだった。友人に対するひどい仕打ちに、菅も杉田も怒った。逮捕を指示した文政権は、菅や李が尽力した日韓慰安婦合意も反故にした。菅の不信感は強かった。19年5月に新しい駐日大使として着任した南官杓が菅と会食できたのはたった一度きりだと、菅周辺は証言する。
菅が首相就任後、心に決めた対韓国外交の方針は「原理原則」だ。菅周辺は「総理のスタイルは、ごね得は許さないというものだ」と語る。これは当面、韓国大法院(最高裁)が日本企業に元徴用工らへの損害賠償を命じた問題を念頭に置いている。すなわち、どんな形であれ、日本企業に損害を生じさせる判決の執行は許さないというものだ。判決が執行されれば、1965年の日韓請求権協定は破壊され、半世紀以上にわたって築かれてきた両国間の様々な取り決めの前提が崩れてしまうからだ。
今、韓国司法が差し押さえた日本企業の韓国資産が現金化される日が刻刻と近づいている。日韓関係筋の一人は、日本企業資産の現金化について「早ければ年内、遅くとも来春までには現金化命令が出るだろう」と懸念する。
「韓国不信」の菅首相
取り巻きたちの楽観論
菅は9月24日、文在寅との間で初めての電話会談を行った。菅はそこでこう伝えた。
「現金化の流れが止まらない限り、日中韓首脳会議に出席することは難しい」
日中韓会議の今年の議長国は韓国だ。韓国側は年内に菅や中国の李克強首相を韓国に招き、首脳会議を開きたいと考えている。だが、「総理が訪問した直後に現金化されたらたまったものではない。それこそ、日本の世論からお前はバカかと非難されるに決まっている」(外務省幹部)という状況のなか、菅が訪韓できるはずもなかった。
文政権は当初、菅政権の誕生を好意的に受け止めていた。韓国では安倍晋三前首相を蛇蝎のように嫌う空気が強かった。韓国メディアのある幹部は「日本でも、文在寅の悪口を書いた本やコメントが喜ばれるんでしょ。あれと同じですよ。韓国では安倍の悪口を書いておけば間違いないという雰囲気があるんです」と語る。それだけに、7年以上も続いた安倍政権の退場は韓国にとって「関係改善の契機か」という楽観的な空気を広げる結果になった。
文政権の取り巻きたちも、青瓦台(韓国大統領府)のご機嫌を損ねたくないため、あえて日本が譲歩する余地があるかのような報告ばかりしてきた。代表的だったのが、駐日大使の南官杓が10月21日、国会外交統一委員会の国政監査で行った報告だった。南は「前向きな雰囲気が形成されていると感じている」「菅首相は安倍前首相と異なる部分もある」など、楽観的な発言を繰り返した。日本政府関係者は「南は次期外相候補の一人。日韓関係の改善があれば、彼の得点も上がるという思惑が働いたのだろう」と語る。
文大統領
青瓦台の使者との秘密接触
ところが、青瓦台は9月24日の電話首脳会談ですでに日本側の厳しい姿勢に気づいていた。もう1年以上も外交省の金丁漢アジア太平洋局長が滝崎成樹外務省アジア大洋州局長(肩書は当時、現内閣官房副長官補)と協議を続けているが、双方とも青瓦台と首相官邸の顔色をうかがうばかりで、原則論ばかりに終始して進展がなかった。
10月11日、青瓦台は一人の高官を日本に送り込んだ。大統領府国家安保室の朴哲民外交政策秘書官(11月27日付で駐ハンガリー大使)。青瓦台に勤務するハイランクの外交責任者だ。外交省の欧州局長や駐ポルトガル大使などを歴任した朴は欧州畑が長く、日韓関係に精通しているわけではない。だが、日本の真意を探り、交渉の土台を作り上げるためには、直接日本の考えを聞く必要があった。朴は12日、滝崎と会い、日本側の真意を探った。もちろん、日本側の発言がぶれるわけもない。滝崎の発言は菅と同じ内容を繰り返すものでしかなかった。
朴は徴用工問題で提案をするにはした。しかし、それは「韓国側が基金をつくって、現金化された日本企業の資産を買い取るから、後で日本企業がそれを買い戻せば良い」というものだった。これは今年春ごろ、非公式協議で韓国側が打診した「韓国政府が現金化と同時に、日本企業の損害を補填する」という案よりも明らかに後退していた。もちろん、日本はこの案も「たとえ同時であっても、判決の執行を認めることに変わりはない」として断っていた。朴の提案は、交渉用ではなく、あくまで日本の反応をみるための観測気球だとみられた。
青瓦台に近い関係者はこう語る。「文大統領は弁護士であり、原則主義者だ。被害者を重視し、三権分立を守ると語ってきた。判決の執行寸前までは妥協しないだろう。安易な妥協は、自らの立場を傷つけることになる」
10月28日、訪韓した滝崎はその足で青瓦台に向かった。朴哲民との2度目の秘密接触だった。この対話の内容はまだ明らかになっていないが、翌29日に行われた滝崎とカウンターパートの金丁漢とのやり取りをみれば、うまくいっていないことは一目瞭然だった。
滝崎は金にこう言った。
「徴用工問題で現金化の流れを止めなければ、日韓関係は破滅だ」
青瓦台としては、日本側の方針を確認したまでは良かったが、なお動きの鈍い足元を揺さぶる事件が起きた。11月3日に行われた米大統領選だった。大接戦となったが、結果的にバイデン前副大統領が勝利を宣言するに至った。これは、文在寅政権にとっては大きな痛手だった。
文政権は、南北関係だけを見据えた「シングル・イシュー政権」(米韓関係筋)だ。現下の最大課題は、22年5月までの文の任期中に、もう一度、南北首脳会談を実現することだ。文政権は2018年2月の平昌冬季五輪の開会式に金正恩朝鮮労働党委員長の実妹、金与正党第一副部長らがやってきた「成果」が忘れられない。当時、筆者は「文藝春秋」2018年3月号に「南北統一五輪は欺瞞だ」を寄稿し、韓国は北朝鮮にだまされてはならないと警告したが、文らは「朝鮮半島に平和がやってきた」と大喜びで宣伝した。
徴用工デモ
二階の義兄弟
案の定、18年4、5、9月と南北首脳会談は実現したものの、国連制裁などに阻まれ、経済支援が得られない北朝鮮が激怒。20年6月に南北連絡事務所を爆破し、南北間の対話の窓を閉めてしまった。「何としてでも、もう一度南北首脳会談を」を合言葉にした文政権がすがったのがトランプ米大統領だった。トランプ再選となれば、米朝首脳再会談への道は開ける。そう考えた韓国は、康京和外相を大統領選直後に訪米させ、ポンペオ国務長官との会談までセットしておいた。
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source : 文藝春秋 2021年1月号