偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。
★篠田桃紅
美術家の篠田桃紅(しのだとうこう)(本名・満洲子)は書道家として出発したが、抽象芸術の領域に大胆に踏み込み衝撃を与えた。
1956(昭和31)年、渡米しニューヨークなどで個展をひらく。鋭い線によって内面を表現する作品は、美術評論家たちに絶賛された。「伝統に基づくモダニズムなのに、そのいずれでもない」。
13(大正2)年、満洲の大連に生まれた。7人兄弟の5番目。従弟に映画監督の篠田正浩がいる。父は岐阜の庄屋の家に生まれるが、漢学や篆刻をまなび、桃紅が生まれたときには、東亜煙草株式会社の大連支店長を務めていた。5歳から父に書道の手ほどきを受け、桃紅の雅号も父がつけてくれた。
東京第八高等女学校(現・八潮高校)を卒業後、独立して暮らすため習字教室を始める。「当時は女学校を出たら嫁にいくのが当然。それが嫌だった」。10代の終わりころに結婚を考えた人もいたが、「たまには妥協しても、とても毎日はできないと思った」。
父から譲り受けた王羲之の法帖(ほうじよう)を手本に、独自に修練を続ける。すでに10歳代に注目されたが、20歳代には新進気鋭の書家となっていた。しかし、戦時中に疎開先で結核を患い死に瀕して、自分が表現したいものだけを描こうと思うようになる。
「川という文字は3本の線で描くが、私は好きなように何本でも線を使いたい」
戦後、自分が思うままに描き始めると、伝統的な書道界からは「根無し草」と批判される。しかし、56年、海外渡航が可能になったのを機に渡米し、抽象芸術家として高い評価を得ると、日本でもマスコミが殺到した。
朱を含む多くの種類の墨をもちい、長い柄の筆をふるい、和紙や布に流れるような線を描いた。また、銀箔を貼った壁に、大胆に朱色の四角形を配置した。ボストン美術館所蔵の「Avanti」、コンラッド東京の壁画、増上寺の「四季」など多くの作品は、いまも人びとにインスピレーションを与えてやまない。
100歳を超えても創作意欲は衰えず、多くの取材に応えた。あるとき某テレビ局が創作中の桃紅を撮影したが、終わるとカメラに向かって語った。「創作の真実を見たとお思いでしょう。でも、真実は捕まえたと思ったときには、もうそこにはないのです」。
(3月1日没、老衰、107歳)
★大塚康生
アニメーターの大塚康生(おおつかやすお)は登場するキャラクターに「演技」をほどこし、作品に生命を吹き込み続けた。
1979(昭和54)年に公開される『ルパン三世 カリオストロの城』を任されたとき、演出を誰にしようか迷っていた。そんなとき電話をかけてきたのが宮崎駿だった。「大塚さん、ルパンやるんだって」「そうなんだ、でも演出がね」「それ、僕がやろうか」。強引にスケジュールを調整して、日本のアニメ史上に残る記念碑的作品となった。
31年、島根県に生まれる。子供のころから絵がうまく、旧制中学時代には、後に画集にする細密な自動車の絵を描きためていた。卒業後は上京するつもりだったが、当時は移動に制限があった。まず厚生省の職員となって、それから東京の職場で働く。
初めは近藤日出造や清水崑の漫画にあこがれていたが、しだいに漫画映画に興味を持ち、東映と合併する前の日本動画映画を受けて合格する。試験は少年が槌で杭を打つ連続画を描けというもので、柄を握り換える動作や、よろける様子まで入れたという。
東映動画には日本のアニメ草創期の人たちが集合していて、その中で実践的に技術を磨いていった。とくに時代を画したといわれる58年の『白蛇伝』に参加できたのは大きかった。
この職場では、才能のある後輩たちとの出会いもあった。信じられないほどの仕事量をこなしながら、アイデアを次々と出す宮崎駿や、なんでも細かくノートをとって、論理的に組み立てていく高畑勲との付き合いは、その後も長く続いた。
68年公開の『太陽の王子 ホルスの大冒険』では、原画や絵コンテを演出の高畑と共同で進め、それぞれのキャラクターの顔付を揃え、動作を滑らかに仕上げる作画監督を大塚が引き受けた。
Aプロダクション(現・シンエイ動画)に移ってからは、69年に放送が始まったテレビアニメ『ムーミン』や、71年開始の『天才バカボン』の作画監督を担当した。78年から宮崎駿監督の『未来少年コナン』で宮崎に乞われ作画監督を引き受けている。
その後、演出や監督を務めたこともあったが、大塚はキャラクターに生き生きとした動きを与える作画監督の仕事を愛した。アニメはあくまで動くもので、一時テレビで普及した、静止画を多用する作品は好まなかった。
2002(平成14)年、文化庁長官賞の打診があったが「アニメーション作家として」と書いてあるので断った。すぐに文化庁から再打診があって「練達のアニメーターとして」と直していたので、喜んで承諾したという。
(3月15日没、心筋梗塞、89歳)
★小野清子
元参議院議員の小野清子(おのきよこ)は、女子体操で2度オリンピックに出場し、政治家に転じて参議院議員を3期務めた。
1986(昭和61)年、当時の中曽根康弘総理の熱心な説得で、東京選挙区から参議院選に立候補し、85万票を獲得して当選する。五輪の銅メダリストで5人の子供を育てたという経歴は、当時の婦人たちの心を捉えた。
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