30人のためだけに

日本人へ 第216回

塩野 七生 作家・在イタリア
ライフ 国際

 一度だけ、生前の司馬遼太郎と、じっくり話をしたことがある。対談のような仕事の場ではない。同席者も私を初めて先生に紹介した人なので、この大作家に対しても、正直に率直に質問した。先生にとって最も嬉しい読者はどんな人ですか、と。書く自分の意図を正確に受けとってくれる人、という答えを予想していたのだが、先生の答えはちがった。「司馬遼太郎は今、こういうことが書きたかったのだな、と思いながら読んでくれる人」であったのだから。

 まったく同感です、と言った私だが、重ねて質問した。「ならば、嬉しくない読者はどんな人たちですか」と。先生は穏やかな笑顔は変えずにそれにも答えてくれた。「司馬遼太郎らしくないとか、こういう作品を司馬遼太郎からは期待していない、とか言う人たち」

 これにも、同感です、と言うしかなかったのだが、その私を少しばかりからかうように、先生はつけ加えたのだ。「でも、嬉しい読者となると300人、というところかな」

 こっちのほうには仰天した。口にも出した。「先生が300人なら私なんて30人にも満たない!」司馬遼太郎はあいかわらず笑顔のままで言った。「そんなもんですよ」

 これより書くことは、その30人のためだけに書く。コロナ騒動もいずれは落ちつくだろうが、それによって変わる社会がどのようなものになるのか希望が持てない。なんとなく、個人の私的な憤りや怨念にすぎない感情を公的な、つまり全体の公憤や怨念に持っていく風潮が盛んになる一方のような気がしてならないのだ。私憤や私怨に留まっているかぎり、それを感じている人にも少しは自らをかえりみる余地が残っているものだが、それが公憤や公怨になるや「権利」のみが表面に出てくるので、「義務」の出番はなくなってしまう。怒りや恨みばかりが大手を振ってのし歩く社会くらい、息づまる世の中はない。お一人さまでも何でもどうぞ御勝手に、という感じ。私ならば、たとえ30人であろうとも、愛してくれる人たちを持つほうを選ぶけれど。

 というわけで変わりつつある社会に何の役にも立たない話を書く気になったのだが、ほぼ確実に「夢」で終わるお話です。

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source : 文藝春秋 2021年6月号

genre : ライフ 国際