人間の言葉と植物のコトバ
コロナ危機が始まり、毎日マスクをするようになった。ウイルスは飛沫によって感染するという。だから、私たちは口と鼻を覆わなければならない。自分が感染しないように。人に感染させないように。
マスクをして気づいたのは、私たちが思いのほか多くの飛沫を交換して生きてきたということだ。私たちは呼吸し、会話する。私の体内にあった空気は、息となって放出され、他者の体内に取り込まれる。この「他者」は人間に限らない。動物の体内にも入り込み、植物にも吸引される。私たちは、呼吸と光合成によって交わっている。
どこまでが自分で、どこからが他者なのか。人間だけでなく、動物や植物との境界線は思いのほか曖昧だ。私を構成している体内の空気は、ついさっきまで植物のいのちを構成していたものだったりする。緑に囲まれた森林で呼吸をすると、私の中を心地よい快楽が駆け抜ける。これは私と植物のいのちが交わった瞬間の喜びだ。
星野智幸は、人間のアイデンティティについて探求してきた作家である。自他の区別がつかなくなる解放感と危険性を、粘り強く描いてきた。私が私であろうとすると、そこに我執が生まれ、苦しみが生じる。「あるべき自分」という規範が私を圧迫し、私の可能性を阻害する。一方、私を私から解放し、他なるものとの合一化が進むと、そこに全体主義の愉楽と暴力が待ち構えている。私とはいったいいかなる存在なのか。救いとは何か。
『植物忌』は2007年から現在までに書かれた短編を収録している。星野は植物や微生物のつぶやきに耳を澄ませる。聞こえてくるのは、人間の言葉とは異なるコトバだ。そして、「自分の感じ取ったつぶやきを、物語の感触として再現」しようとする。「そうすれば、私が古植物や土の一部になれるような気がして」
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source : 文藝春秋 2021年7月号