いつまでたっても人とゆっくり会えないし、飲み屋は開かないし、私のようなウワバミはすっかりひしゃげてしまった。もう街の灯など忘れよう、と繰り出したのが山。書き物の仕事の区切りがつくと山に行き、息を切らして歩くのだ。より高い山を目指すような意気はないけど、肉体の苦しさは、楽しさと同じだけ連続してきた日常を忘れさせてくれる。
広島の自宅から近い400メートル超の山に登ってみたら、数年前から頻発する豪雨災害で道は崩れ、大きな木が根こそぎ倒されていた。登り切ると市内が一望できて、瀬戸内の島々まで見渡せた。霊験あらたかな山頂で瞑想でもして人生見つめ直すかな~、などと思っていたが、ウィンウィーン、と何やら賑やか。見れば白髪の男性が草を刈っていた。こっちは水とおにぎりだけ背負って登ってヘロヘロなのに、電動草刈機を担いで来てそこから仕事、ってどんな体力なんだ。と感心していると、じきに男性は「ガソリン切れちゃった。今日はここまで」と独り言のように言って、私の隣の岩陰に腰を下ろされた。
一人で動くと、見知らぬ人と言葉を交わすことも多くなる。聞けば男性は業者や県職員ではなく、山の保全活動をする地元の有志の方で、伸びた草木を整えたり、登山道を作ったりするらしい。
「ボランティアってことですか」
「そうですよ。84の年金暮らしです。役所にもお願いするけど、やるのはいいが金はないよ、と言われるんです」
素人でも子供でも登れるいい山だけれど、経済効果が見込めるほどの観光地でもなし、3年前の雨での倒木がそのままになっているのも納得がいった。
「私のグループの管轄は反対側の登山道なんですよ。そっちも随分崩れたけど、2年かけて直しました。名水が出る所もあって、よく人も水を汲みに来ますよ」
私の水筒は空になりかけていた。案内してもらって一緒に山を降りてみると、難所にはロープが渡され、天然の丸太で階段が作られ、往路より歩きやすく心地よかった。山を登る時に何気なく頼っている手すりや足場がこういう人たちの仕業とは……と驚きつつ——その日私の頭の中に、常に蠅のようにまとわりついて離れなかった問題がある。
その男性のことを、何と呼べば良いのか最後までわからなかったのだ。こういう行きがかりで出会った人とは、名前も聞かずに別れるくらいがいい。しかし人間同士が会話を続ければ、必ず2人称代名詞が必要な文脈がやってくる。
例:「私が来た道は、○○の管轄とは違うんですか?」
名も知らぬ、親ほど年上の人のことを、さて何と呼ぶべきか?
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source : 文藝春秋 2021年11月号