「開戦の詔書」から御心の揺らぎが見えてきた
未発見だった第8案が
「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス……」
昭和16年12月8日の正午と午後7時にNHKラジオで捧読された「開戦の詔書」(以下『詔書』)は、こんな文言で始まる。要約してみる。
日本はあらゆる国と共栄を図ってきたのに、中華民国は事を荒立てて平和を乱すばかり。それなのに米英両国は中華民国を支援し、密かに東アジアを支配しようとしている。そのうえ日本に軍事的圧力を加え、経済断交までして国家の生存を脅かしてきた。今や自存自衛のためには戦うしかない――。自衛のために戦争をするんだという主張である。
この詔書を作成する過程で作られた詔書案が、20年前から我が家にある。それも2種類。どちらもB4大のガリ版刷りで、右上に朱色で「国家機密」の印が押されている。
詔書は完成するまでたびたび書き換えられていて、記録では第8案まであった。そのうち1~6案までは防衛省戦史史料室に眠っていて、今は国立公文書館に移された。手許にある詔書の1つは第2案のようだが、もう1つはこの中にはない。ただ、文言は発布された詔書と同じだから未発見の第8案かと思われる。
これがなぜ私の手元にあるのかを説明しておきたい。
第8案まであるという詔書案
側近が遺した詔書案
元の持ち主は、戦前の宮内省から戦後の宮内庁まで、その生涯を宮中に捧げた戸原辰治氏である。昭和15年の「宮内省職員録」には、皇后宮職兼任の事務官とある。昭和15年に昭和天皇第二皇子の義宮(常陸宮)が5歳になったのを機に、義宮付を命じられ、義宮が学習院大学を卒業する前年の昭和32年まで仕えるのだが、戦時中の疎開も含めて、義宮の行く先々ではいつも戸原氏がいたという。
両親と離れて住んでいた義宮にすれば親代わりのような存在だったようだ。その後、義宮付を離れ、昭和天皇の側近として、御璽・国璽保管の任にあたった。昭和45年に定年を迎え、のちに園遊会に招かれたとき、昭和天皇から「戸原! 長い間、ありがとう」と声をかけられたという。
手許にある2枚の詔書を比較すると、文言の違う箇所が27か所ある。なぜ違っているのか、戸原氏は気になったのだろう。
詔書の発布は、大日本帝国憲法下では天皇の大権に属するもので、天皇の意思が込められているとされた。つまり大御心である。とすれば、書き換えられた箇所を調べれば天皇の気持ちを忖度できるのでは、と戸原氏は考えたようだ。だが、手を付けられないまま、昭和61年に81歳で亡くなる。その直前に思いを知人に打ち明けた。小野満氏という毎日新聞で宮内庁を担当していた記者である。
あるとき、戸原氏に呼ばれて小野氏が常陸宮邸を訪ねると、常陸宮を囲んで一緒に麻雀をすることになったそうで、それだけ小野氏は信頼されていたのだろう。戸原氏が亡くなる数日前に電話で呼ばれたことをこう書き残している。
「苦しい息づかいをしながら『極めて貴重なものだ』と語り、家族を通じて渡してくれた。まもなく鬼籍に入ったが、歴史を正確にたどるためにも、どのような過程をたどって作り上げられたのかを追跡するのは、故人の遺志に沿うことであると考えた」
ところが残念なことに、調査が進まないうちに、小野氏に胃癌が見つかり、入退院を繰り返しながら平成8年(1996年)に死去する。
私と小野氏は、皇室ジャーナリストの故・松崎敏弥氏と一緒に何度か会った程度だが、小野氏が亡くなって1年ほど経った頃、松崎氏に呼ばれて小野氏の自宅を訪ねた。そのとき夫人から、「主人の遺言です」と笑顔で開戦の詔書と取材メモを渡された。生前に小野氏が松崎氏と相談したのだろう。帰って読んでみると、なんだか、この取材はお前が引き受けろと言われている気がしてきたのである。それ以来、目黒にあった戦史史料室で詔書案を閲覧したり、詔書案作成に関わった漢文学者の遺族を探したりしたが、他の取材が忙しくなって、詔書案はファイルに仕舞い込まれたままになってしまった。このまま放っておいても、貴重な詔書案が我が家で朽ち果てるだけと思い直し、再び調べてみることにしたというわけである。
大元帥・昭和天皇
戦争か外交交渉か
詔書に込められた昭和天皇の意思を探る前に、詔書が作成されるまでの経緯をざっくり述べておきたい。
戦争主導の御前会議は、昭和16年に4回開かれているが、日本が対米戦争に舵を切るのは7月2日の第1回目の御前会議だった。このとき初めて「対英米戦を辞せす」と、戦争を視野に入れたのである。
ここに至ったのは、前年に北部仏印(ベトナム北部)へ武力進駐し、日独伊三国同盟を結んだことから、アメリカがくず鉄を輸出禁止にし、石油製品を輸出許可制にしたからである。そこで、じり貧になるより南方へ進出して資源を獲得すべしと、7月28日に南部仏印へ進駐したわけだが、アメリカはすぐ日本の在米資産を凍結し、さらに石油の全面輸出禁止を通告してきた。
第一次世界大戦以降、燃料は石炭から石油へ変わり、飛行機も石油がないと飛べない。その石油の9割をアメリカから輸入していた。石油がなくなれば丸裸である。アメリカと外交交渉で解決するか、それとも、石油の備蓄量がなくなる前に打って出るかの二者択一を迫られた。
アメリカは後者を疑ったのか、同時期に、ダグラス・マッカーサーを総司令官に、アメリカ極東陸軍を創設している。実際、その目論み通り、9月6日の御前会議で、外交交渉が10月上旬までに目途がつかなければ「直ちに対米(英蘭)開戦を決意」と決定されるのである。
10月16日、開戦の自信がないという理由で近衛文麿総理は政権を投げ出し、東条英機に大命が降下した。選んだのが木戸幸一内大臣である。木戸から、9月6日の御前会議の決定にとらわれず白紙還元を条件にせよと命じられた東条は、戦争に突き進むか対米外交を継続するかを再検討するため、毎日のように連絡会議を開いた。しかし、結果は天皇の思惑と違い、東条は「大東亜の新秩序を建設するために対米英蘭戦争を決意した」と報告する。
そして11月5日の御前会議で、アメリカが日本の要求を受け入れない限り、戦争は不可避であるとし、12月1日まで外交交渉を続けるが、解決できない場合、「自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設する為、此の際対米英蘭戦争を決意……」が天皇によって裁可された。開戦の意思決定は12月1日の御前会議で諮詢されるが、実質的にこの日で決定したといえる。
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詔書とは、天皇の意思を書いた「みことのり」であり、「開戦の詔書」も同じである。もっとも、実際は戦前の知識人でも難解だったようで、むしろ、「やるんだ!」という決意表明のようなもので、国民を鼓舞する「檄」と思ったほうがわかりやすい。
それはともかく、天皇は木戸に、詔書を出す場合は自分の気持ちを取り入れてもらいたいと述べ、木戸を通して文案を作成する内閣と緊密に連絡をとっていたことや『昭和天皇独白録』(以下『独白録』)に〈東条は度〻宣戦の詔書案を持つて来た〉とあり、詔書には天皇の意思が反映されていることは間違いない。とはいえ、詔書には今もよくわかっていないことが多い。そこで複数の専門家の意見を交えながら、史料や専門書を参考に太平洋戦争と「開戦の詔書」をめぐる謎を読み解いてみたい。
東条英機
ひそかに作られた「骨子」
1、天皇はいつ開戦を決意し、詔書はいつ書き始めたのか。
『昭和天皇実録』(以下『実録』)によれば、昭和天皇が初めて詔書についてふれたのは10月13日で、「宣戦の詔書を発する場合には(略)十分に自分の気持ちを取り入れてもらいたき旨の御希望を述べられ」たとある。9月6日の御前会議で一気に対米戦争が現実味を帯びてきたが、その後も日米交渉が妥結する見込みはなく、天皇は最悪の事態を考えたのだろう。それ以来、12月1日の御前会議まで、天皇と詔書の関係は『実録』に現れない。
詔書案の審議で事務方の中心だった当時内閣官房総務課長の稲田周一の手記によれば、10月末から詔書案を検討している。木戸から依頼されたのだろうか。その後は特に記述はなく、あわただしく展開するのは「対米英蘭戦争を決意」した11月5日の御前会議からである。
この数日後、内閣と軍部で「対米英開戦名目骨子」がひそかに作成された。戦争の目的を綴ったもので、詔書案の基礎になるものだった。「大東亜の新秩序を建設」するのは我国の国是であり、それを妨害する米英には「干戈を執りて一切の障礙を破砕する」といった内容である。11月半ば、稲田はこの骨子をもとに詔書案を作成する。
同じ頃、東条総理は徳富蘇峰へ文案の修正を依頼した。〈「祖宗の神霊上に在り」のことばは徳富蘇峰氏の挿入した文句である〉(『東條内閣総理大臣機密記録』)という。当時の徳富は「米英撃つべし」と戦争を煽っていた言論人の筆頭だった。
稲田が星野直樹書記官長と案を練りながら第一稿を書き上げると閣議に諮るが、東条が天皇に第1案を見せたのは、12月1日の御前会議の前だろう。前出の『機密記録』12月1日付にこうある。
〈殊に日英同盟のこと、お上が英国で特に其皇室と親交を結び滞英中色々と世話になられたことなどをお話しされた……。宣戦の大詔に豈朕が志ならんやとはお上が特に仰られて挿入した文句である〉
「最初にできた詔書案を天皇に見せたのが12月1日で、天皇が『それでは不満だ』ということで直していったのでしょう」と歴史学者で元中央大学文学部教授の佐藤元英氏が言う。この日から開戦の前日まで、東条は毎日のように案を修正しては天皇に報告したようだ。
昭和天皇最後の抵抗
2、天皇の意思―なぜ「豈朕カ志ナラムヤ」を入れたのか。
「豈朕カ志ナラムヤ」とは、私の本意ではないといった意味だが、実に奇妙な言葉だ。開戦の詔書は、いわば果たし状のようなもので、これから喧嘩するのに、本当は喧嘩したくないと言っているようなものである。
この文言を入れた経緯を、稲田はこう証言している。
天皇から、親交のある英国と戦を交えることは忍びなく、その気持ちを詔書に表現してもらいたいと言われた東条は、稲田にそれを伝えたのだが、稲田は反発したという。
「『今から戦争しようというその相手との親善関係等詳しく述べ立てるようなことが一体書けますか』と反駁したところ、初めて総理も黙つてしまつた。ややあつて、私から『豈朕ガ志ナラムヤ』との一案を提示したところ、総理は『それでよろしい』とのことで、そのように落ちついたのであった」(「稲田周一聴取書」)
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source : 文藝春秋 2022年1月号