差別、貧困、死……。抗いがたい運命と戦った人々の物語。
東谷氏
マンガの常識を大きく破っていた
白土三平が10月8日に亡くなった。訃報を目にして少年時代に夢中になって読んだ『サスケ』や『カムイ外伝(第1部)』の主人公が、しばし頭のなかを飛び回ったが、同じような追想をした人たちは多いのではないだろうか。三平の作品が最初に社会的な注目を浴びたのは、1964年から『カムイ伝』を月刊マンガ雑誌『ガロ』に連載して、大学生に盛んに読まれるようになったころだった。
『カムイ伝』は何から何までそれまでのマンガの常識を大きく破っていた。まず、毎月のページ数が100ページ前後もあった。また、被差別民出身の忍者が主人公というのも、当然のことながら初めてだった。そして、この忍者が「抜忍」となって農民一揆に加わるというストーリーも前代未聞といってよかった。
舞台は江戸時代に存在したと設定される「日置藩」で、問題が次々と起こるのになぜか取り潰しにならないという謎を秘めている。主人公といってよい人物は3人登場するが、この抜忍のカムイ、次に家名断絶となる次席家老の嫡子である草加竜之進、そして農民の下人出身の正助であり、彼らは自らの運命に抗って生きる葛藤に苦しんでいる。
財政窮乏が甚だしいこの藩では、武士たちが苛烈な課税をしかけてくる。それに対して農民指導者に成長しつつある正助が知恵を絞って切り抜けるが、ついに一揆になだれ込み、カムイと竜之進が加勢し闘争へと進んでいく。
ちょうど学生運動が、再び高揚期を迎えようとしている時期で、運動にかかわった学生たちは自分たちの闘争とだぶらせて読んだ。また、若い社会人も不穏な空気が広がるなかで、「学生も読んでいる」といわれるマンガ雑誌『ガロ』を手に取った。そして『カムイ伝』を読み始め、いつの間にか夢中になってしまう現象は珍しくなかった。
『ガロ』自体は当時まだ3万部ほどしか出ていなかったので『カムイ伝』を読みたい若者たちは盛んに回し読みをして、そのなかで共通の読者という感覚が連帯感を生み出していく。さらに白土三平の作品への渇望は、5年前から発売され、貸本屋でぼろぼろになっていた『忍者武芸帳 影丸伝』に遡り、競って読むというブームが生まれた。
この『忍者武芸帳 影丸伝』においてもまた、農民による一揆がテーマだった。戦国時代末期を舞台に、影丸という超人的な忍者が農民に加担し、さらには一向一揆と連携して、戦国武将による圧政と収奪に対抗していくストーリーが展開する。主人公の影丸は、闘争のなかで何度か殺害されるが、奇跡的に復活して闘争を続けていく。
不死と思われた影丸が囚われてついに八つ裂きにされる寸前、心から心にメッセージを伝える「無声伝心の法」によって「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」との遺言を残す最終巻では、自分に託された言葉であるかのように受け止めた若者は多かった。
この時期のブームのさなか、週刊朝日1966年12月2日号の記事「マンガ界の風雲児 白土三平」は、無精髭で澄んだ瞳をした三平が訥々と語る様子を伝えている。「ぼくは食うためにマンガを書いてきた。食えるという基本の上に、やりたいことをやろうとしてきた。大きな雑誌社に持っていっても干渉が多かった。その点、単行本は自由で、内容に関してはタッチしないし、安かったが原稿とひきかえに金をくれた」。
ウ・ウーと奇声をあげて
1932年、東京の杉並で生まれる。本名は岡本登。弟に年子の鉄二がいて、長年にわたり作画を担当し、三平の死去の4日後に亡くなっている。父はプロレタリアート絵画で知られる岡本唐貴で、絵画理論でも主導的役割を果たしていたため、官憲に激しい弾圧を受けた。拷問によって背骨を傷めたのが原因で脊椎カリエスで苦しんだという。
三平がもの心ついたころに家族は貧困のなかにあり、神戸や大阪を転々としていた。逮捕された唐貴が長男を背負っている妻と面会したときの様子を、『岡本唐貴自傳的回想画集』の「自伝走りがき」から引こう。
「生後半歳ほどの長男をおんぶしていた。差し入れだというトマトをかじったとたん長男登が私を見てウ・ウーと奇声をあげて、母の背中であばれだした。その声を聞きその姿を見たとたん、眼から熱いものが、喰べかけのトマトの上にぽたぽたと落ちた。実にくやしかった」。
さらに幼少期に自らの家庭の貧困だけでなく、父が警察から逃れ転々とするなかで、被差別民や朝鮮人の集落に触れたという。それが後に『カムイ伝』を書くモチーフとなったと毛利甚八の『白土三平伝』は指摘している。「白土の生い立ちは、在日朝鮮人や長屋に生きる貧しい人々をごく普通に隣人として眺める仲間意識を白土の心のなかに育てた」。
やがて一家は東京に戻ったものの父・唐貴が1943年、パリから帰国していた藤田嗣治の作品『アッツ島玉砕』を見て、日本は間もなく敗北すると予感し、翌年夏に疎開することにした。
白土三平
暴力的イジメの対象に
岡本一家は長野県の別所温泉の近くに居を得たが、三平少年にとっては試練の時期だった。三平はよそ者であるだけでなく、父が「アカ」であることが周囲に知れ渡ってしまう。しかも旧制中学で教師に「将来何になる気か」と聞かれたとき、三平は「画家になりたい」と答えたことから、疎んじられるだけでなく暴力的イジメの対象とされたという。
戦後になって東京に戻ってきてからも、岡本一家の貧困と周囲の冷ややかな視線は同じだった。三平は疎開前に通った私立練真中学に復学したが、家計を助けるために働き、弟・鉄二と一緒に父親にデッサンを習っているうちに、「画家になるのだから、学校に通っても意味がない」と思い始め3年生で退学している。
画10枚に対して200円
しかし、デッサンがうまくなっても、画家にすぐなれるわけではなかった。人形劇団に加わって活動しているころ、紙芝居の下絵を描いている人物と知り合い、最初は手伝いだったが、やがて自分でもオリジナルの絵を描くようになる。この時代のことは、当時、紙芝居画家たちの「親分」で後に評論家になる加太こうじが、三平について書いている。
「白土三平は、紙芝居のさまざまな活動が、テレビその他の影響で衰退しはじめた時期に紙芝居の画家になった。そして、安い賃金で1日に20枚くらいの幼児向きのマンガを描いた」(『人物往来』1965年10月号)。その紙芝居のマンガに加太が払った金は「彩色した画十枚に対して200円だった」(同前)。あるとき三平は紙芝居組合の事務局長と口論となって、紙芝居をやめてしまう。
そのさいにも、律儀なことに加太のところに挨拶に来たが、加太は寝ていたため妻が応対し、後に加太に告げた。「三ちゃんどこか練馬のほうへ越していったわよ。……あんなさっぱりしたいい人、もう紙芝居へはこないだろうな」(同前)。
このあと三平は「練馬のほう」のアパートで、人形劇団で出会った女性と所帯をもち、貸本向けのマンガを描き始める。最初に完成させたのが『こがらし剣士』で巴出版から刊行した。画風は一見して手塚治虫の影響が分かるもので、あわて者の少年剣士きり太郎が主人公である。剣豪たちが競い合い、なかでも東原心は最強とされていたが、最後にこがらし剣士に敗れる。きり太郎が、実はこがらし剣士だったことが明らかになるという展開だった。
『ガロ』編集長の長井
この128ページの処女作は評判がよく、当時、子供ができていた三平は、新作を描き上げ巴出版にもっていくと、頼りにしていたこの出版社は倒産していた。他の出版社にも持ち込んだが、条件があわずにせっかくの原稿が換金できなかった。
最後に望みをかけたのが、長井勝一が経営していた日本漫画社だった。長井は波乱万丈の人生をへてきた人物で満洲で山師(鉱山技術者)をやっていたこともある。後に『ガロ』の発行元になるのだが、このときのことは長井の自伝『「ガロ」編集長』に詳しい。「御徒町の店で帳面づけをしていたわたしの所に、一人の若い男がたずねてきた。『お宅でもマンガの出版をやっていると聞いたから来たんだけど、これ見てもらえませんか』と原稿を出したのである」。
さっと見ただけで特徴あるダイナミックなコマ割りで、評判のいい『こがらし剣士』の作者であることが分かった。そこですぐに原稿(『嵐の忍者』)を買い取り、「また描いたら持ってきてください」と声をかけたという。この出会いが貸本の世界で話題になる『甲賀武芸帳』を生みだし、さらに『忍者武芸帳 影丸伝』や『ガロ』に繋がっていくのである。
ただし長井は文字通り山師的(投機的)な気質もある人物で、地道に出版に専心したわけではなかった。三平のお陰でマンガの売れ行きがよくなったため、毎夜飲み歩くうちバーの女性に惚れてしまい、突然、彼女のためにバー経営者に転じてしまう。またしても原稿の持ち込み先を失った三平だったが、幸いなことに長井がバー経営に失敗し、マンガ出版社の三洋社を設立して、こんどは長井が三平に頭を下げて原稿を頼みに来ることになる。
このとき、三平は他の出版社と関係が深くなっていたが、他社の了解を取ることを条件に三洋社から新作を出すことに同意している。当時、三平が密かに構想していたのが『影丸伝』で、2人でいろいろ相談するなかで、長井は売れた『甲賀武芸帳』の縁起をかついで「武芸帳」を主張し、「いやがる三平に無理やり『忍者武芸帳 影丸伝』というタイトルを押し付けた」という。
長井は1959年から刊行を始めた『忍者武芸帳 影丸伝』の成功を回想しながら、「よほどめぐり合わせのいいときに、わたしはぶつかったのだという気がする」などと述べているが、その押しの強さと大胆さが、めぐり合わせを招き寄せたというべきだろう。そしてもちろんこの時期に、三平の漫画家としての力量も急速に伸びていくのである。
『忍者武芸帳 影丸伝』は、すでに触れたように不思議な忍者・影丸が主人公で、殺されても復活して再び戦う。影丸のセリフによれば「わしが死ねばその役をつぐ者がかならずでる。破れても人びとは目的に向かって多くの人が平等にしあわせになる日まで戦うのじゃ」。しかし、殺しても死なないのは領主や天下統一を目指している織田信長も同じで、彼らは分身や影武者をもっているから戦いは延々と続く。
『忍者武芸帳 影丸伝』
作家的野望を抱く
当時、三洋社の社長だった長井によれば、第1巻が256ページで定価150円、刷部数が6000部でこれは当時として破格のことだった。2000部刷ると版元の儲けが漫画家の原稿料と同じくらいになるなどと、かなり微妙なことを述べているが、それが6000部ならば三洋社も潤ったのではないだろうか。ところで、全16巻が完結したのは1962年だったが、この間、長井は結核が悪化してまたしても三洋社を畳んだので、最後の巻は2冊に分冊して東邦漫画出版から刊行されている。
1964年にいよいよ長井を編集長にして『ガロ』が創刊されるが、長大な『カムイ伝』は白土三平が、出版社側がもっているさまざまな制約なしにマンガを描きたいという、作家的野望を抱いたことから始まっている。三平は千葉県勝浦の結核療養所にいる長井を訪ねて、自分の構想を打ちあけたが、長井はそれを聞いて居ても立ってもいられず、療養所を抜け出して東京で青林堂を立ち上げるなど下準備を始めている。
三平は長井と『ガロ』を創刊するにあたって、投稿する漫画家たちに2つの条件を提示した。「第1には、『おもしろいこと』というのが挙げられており、2には『内容第一(技術は実験・経験をとおしておのずと進歩するものです)』と書かれている」(長井『「ガロ」編集長』)。
興味深いのは長井がほぼ準備を完了して、さて原稿が欲しいという段階になって、今度は三平が脱稿できなかったことである。結局、1964年7月号には『カムイ伝』は間に合わなかった。これは長井が告白しているように、一旦『ガロ』を出すと決めると一刻も早く創刊したくなり、多くの漫画家に声をかけてしまったためだった。三平は後々まで「構想を練る時間をくれなかった」と長井を責めたという。
『カムイ伝』の内容については本稿冒頭を読み返していただくことにして、この壮大な物語を紡ぐために三平がつくりあげた「赤目プロダクション」について触れておこう。三平はそれまで弟の鉄二や、後には小山春夫などをアシスタントとして使っているが、原則的に最後のペン入れは自分もやっていた。しかし、『ガロ』は作家への原稿料がない雑誌だったが、当面は赤字になることが見えていたので、『カムイ伝』の構想と下絵までは自分がやり、ペン入れを他の漫画家に原稿料を払って依頼することにした。その分、他の仕事を取って資金を稼ぐことにしたのである。依頼する漫画家は、長井と相談して、当時、実力派とされていた平田弘史と小島剛夕を候補とし、最終的に剛夕に決定した。
いうまでもなく小島剛夕は、後に『子連れ狼』で一大ブームを起こす劇画家で、2人の目に狂いはなかったというべきだが、三平より4つ年上ですでに一家をなしていた。三平はかなり気を使い、下絵ができた段階で自らオートバイに乗り、剛夕の仕事場に届けにいったという。
そのいっぽうで、実入りのよい商業雑誌での仕事を増やした。この前後の作品をざっと見ておくと、すでに1961年から雑誌『少年』に『サスケ』を連載していた。この作品は、少年忍者がさまざまな忍術を身につけながら成長していく物語で、当時のマンガ好き少年たちを虜にした。ここに登場する「微塵がくれの術」は、敵を洞穴に誘い込み、自らは地中に潜って火薬を爆発させ敵を倒す術で、当時の少年たちは、サスケがこの術を使うのが待ち遠しくドキドキしながら読んだ。
「微塵がくれの術」を試す
すこし脱線するが、四方田犬彦が『白土三平論』を刊行したとき、冒頭にこの微塵がくれの術の話が出てきて、微塵がくれを自分で試みたが失敗したと書いているのに驚いた。実は私も微塵がくれの術を実行してみようと黒色火薬をつくるために薬局に硫黄を買いにいって、そこから足がつき父に厳しく叱責された体験があったからだ。四方田は導火線に火をつける直前までいったと述べていて、これはすごいと思った。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2022年1月号