器械嫌い

古風堂々 第38回

藤原 正彦 作家・数学者
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 この歳になって初めてスマホを購入した。10年ほど前に家族から「緊急連絡用に」と説得されケータイは持ったが、今回は家族に「スマホならどこでも調べものができる」と誘惑された。買って4ヵ月ほどたつが、まだ電話とメールがやっとという状態だから、ケータイと同じだ。息子や女房は旅先でも、どのレストランにしようかスマホで調べ、そこへの道案内までスマホにさせたりする。私が使い方を尋ねると、息子はさも面倒臭そうに、女房は「相変わらず無能ねえ」という顔で教えてくれる。癪なので取扱説明書をひも解くがこれがさっぱり分からない。情報機器の説明書はどれも理解不可能なのだ。例えば昨年買ったパソコンの説明書を開くと、初めから片仮名の洪水である。アダプター、コネクター、セットアップ、バージョン、レイアウト、デバイス、ディスプレー、タブレット、サインイン……などといった具合だ。私は99%の日本人より英語がうまいと思うが、とんと分からない。息子達に「こんな説明書よく分かったな」と言うと、「読むから分からないんだよ、いじってみれば分かるよ」と分からないことを言う。理性ある人間なら、説明書を読まずにいじったら壊してしまうと考えるから、情報機器は無鉄砲な者向きなのだろう。

 私が駄目なのは情報機器だけではない。器械はどれも駄目だ。テレビ番組のビデオ録画、プリンターのインク交換、目覚まし時計や暖房の時間予約なども女房にしてもらう。

 数学者には私のような器械音痴がしばしばいる。解析的整数論の巨匠ハーディ教授は、腕時計をつけなかったし、万年筆もダメで羽根ペンを用い、電話さえ使わなかった。アメリカ時代の私の恩師シュミット教授は、カメラもファックスも持たず、パソコンは同僚に勧められついに持ったがメールが多過ぎると電源を引き抜いてしまった。私と同じコロラド大学にいた物理学者のガモフ博士によると、理論物理学者にもこういう人がよく見られるそうだ。「パウリの排他律」で有名なパウリ博士や量子力学の父ボーア博士は実験が苦手で、器具を壊してばかりいたらしい。パウリ博士などは、彼が実験室に入っただけで計器が故障したというから凄い。

 数学や理論物理学者の多くは、幼いころから算数が何より好きだった一方、恐ろしく不器用で実験が人並みにできなかった人々である。一人で考え続けることは得意だが友達との共同作業にはうまく入れない、どちらかというと協調性に欠けた人々でもある。こういった人々の進路は限られ、文系は難しいし、理系でもチームワークや実験の必要な工学部、医学部には行けない。こうして可能性を消去した結果、数学と理論物理しか残らなかった人々と言える。こう書くと変人の吹きだまりのように聞こえるが、協調性がないから派閥には加わらないし、権力や地位や金にこだわらない、ユーモアのある清廉な人々が多い。

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source : 文藝春秋 2022年7月号

genre : ライフ 人生相談 ライフスタイル