「呉服がドル箱だから」と断られたとき泣きながら自分の店を持つしかないと決意した
桂さん
4人に1人が「自由でいたい」
厚生労働省の統計で2021年の婚姻数が約51万4000組(速報値)と戦後最少だったという報道が話題になりましたね。
私がブライダルの仕事を始めた初期の1970年代初めは、1年間に結婚するカップルの数は、110万組もいました。
当時の実に2分の1以下に減ってしまったということです。
しかも、内閣府の調査では30代独身の男女とも4人に1人が「自由でいたい」と結婚願望がないとか。
これは、生涯ブライダルひと筋で生きてきた身からすると、本当に悲しいことです。
女性は、「いい人と出会えれば今日にでも結婚しますよ」という人も多いと思いますが、男性は、昔と違って、奥さんがいなくても困らずに暮らせますからね。
私も、2006年頃から、非婚化・晩婚化対策のひとつとして全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定する「恋人の聖地」プロジェクトに関わってきました。
政府も、地方の婚活業者に補助金を出すなどいろいろ手は打っているようですが、なかなか効果があがっているように見受けられません。
これだけは、個人の自由ですからね。やはり、ひとりひとりが「結婚したい」と思わないことにはね。
YUMI KATSURA MUSEUMで展示されるドレス
「ブライダル」はなかった
私は1964年の年末に日本初のブライダルファッションデザイナーとしての活動を開始してから、60年近くにわたって、「ブライダル」に携わって生きてきました。
それはひとえに、素敵なウエディングドレスで結婚式をあげたいという女性の願いをかなえたいという想いからです。
私がもともとこの道に入ったきっかけは、母が経営していた洋裁学校「東京文教学園」(現・東京文化ブライダル専門学校)で、教師をしていた時に、教え子の卒業制作のテーマとしてウエディングドレスを選んだことでした。
大学卒業後にパリに1年留学した私はそこで立体裁断などの技術を学び、数多くの西洋風のウエディングドレスを見ていたのです。
ところが、生徒たちがウエディングドレスを製作するために素材を探そうとすると、当時の日本にはろくな生地もレースもありませんでした。そもそも幅広の生地を織れる織機もなかったのです。
卒業制作では生徒たちが実際に作ったドレスを着てショーを開催するのですが、ドレス用のインナーもなければ、白いハイヒールを手に入れるのもひと苦労。
当時は森英恵さんたち有名なデザイナーも現れて、日本のファッションの水準は高まっていましたが、ことブライダルは、まだ全く何もない、ということがわかったのです。
そもそも結婚式を指す「ウエディング」の語はあっても、新婦や花嫁を意味する「ブライダル」という言葉が全く使われていない時代でした。
今でこそ、ほとんどの方が結婚式でウエディングドレスを着ますが、その頃は、和装での神前結婚式が主流で、ドレスを着る人はまだ全体の3%しかいなかったのです。
でも、日本で洋装が主流となりつつあるなか、純白のウエディングドレスに憧れる花嫁はたくさん生まれるに違いない、その人たちに満足のいくドレスを作ってあげたい。そう思った私は、ブライダルの道に進むことを決めたのです。
とはいえ、当時は、母の経営する洋裁学校が学校法人になっていて、私はその後継者としても期待されていました。
学校法人は万一のことがあると土地、建物が国庫に没収されてしまいますから、母からは、もしブライダルと学校経営が両立しなければ学校経営を取るように言われました。
母はもともと、女性が子育てしながら家でも働けるようにとの思いで学校経営に乗り出し、苦労しながら少しずつ大きくしてきたのです。
そんな母の学校をつぶすわけにはいきませんから、私は店の数を増やしたり、縫製工場を自前で持つことはせずに、ライセンス契約やフランチャイズのシステムなど、どこか別の会社と組むことでリスクを最小限に抑えてビジネスを始めました。
呉服がドル箱なんです
ブライダルをやると決めた頃、あるデパートに営業に行った時のことは今も忘れられません。
当時は、デパートでも女性が写真などを持って行けばオーダーでウエディングドレスを作ってくれるところはあったのですが、いわゆる「ブライダルファッションコーナー」というのは全くない時代でした。
そこで、ある老舗デパートの婦人服部長さんをご紹介いただき、「これからはウエディングドレスの時代が来ます。だから、お宅で日本初のブライダルコーナーを作りませんか」とお話に行ったのです。
華やかなウエディングドレスがデパートに飾られていたら、女性たちもきっと憧れるに違いないという想いもありました。
ところが、その方がおっしゃるには、「いや、うちは呉服がドル箱なんですよ」と。
当時は、和装の結婚式がほとんどで、しかもお色直しという習慣のない時代ですから、和装か洋装かの二択なら、和装のほうが売上げが立つのです。そして、ウエディングドレスを導入するとドル箱の和装が食われてしまうかもしれない。
「自分は婦人服部長なので理解できますが、それ以前にこのデパートの社員です。だからデパート全体にプラスになることしかできないんです」と言われてしまいました。
今もはっきり覚えていますが、デパートを出て、涙をいっぱい流しながら銀座の街を歩いていたら、ちょうど雨も降ってきて……。
このデパートがこう言うんだったら、他にこの話をもっていってもきっと同じに違いない。
もう、自分で店を開くしかないと、その時、心に決めたんです。たとえ3%でもウエディングドレスを着たくて困っている人がいるかもしれない、それなら自分でやろうと。
そのために世界のブライダル事情を研究しようと、開店前に1年間海外視察の旅にでかけました。
当時は1ドル360円時代。費用は、母が私の結婚費用にと貯金していたお金を使わせてもらいました。費用も大変ですが、海外に行くビザを取るのも難しい時代です。
そこで、海外のウエディング事情を取材するということで「女性自身」の特派記者として報道ビザで旅立ちました。この海外視察でオードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、グレース・ケリーなど、今では考えられないような海外の名だたるセレブリティの方々に直接インタビューをすることもできました。
視察として旧ソ連、ヨーロッパ、アメリカなど約20カ国を約1年かけて巡り、海外の結婚式事情を見るうちに日本にも必ず西洋風の結婚式が流行る時が来るに違いないとますます確信を強めました。
最初のお店「桂由美ブライダルサロン」を赤坂にオープンしたのは1964年の12月末です。ちょうどTBSが赤坂に立派な社屋を建てた頃で、その真ん前にあったビルの2階が目に入りました。
TBSの前なら芸能人も見に来るし、メディアの話題にもなりやすいだろうと思ったのです。
迎賓館赤坂離宮で初のファッションショー
お客さまが30人だけ
最初はビルを借りるつもりでしたが、母が「収入もまだ見込めないのに、借りたら必ず家賃で苦労する」と大反対。どうせなら銀行からお金を借りて買ったほうがいいというので、17坪くらいの小さな土地を購入し、小さなビルを建て返済していくことにしました。
のちに、このビルを売って、今の社屋がある乃木坂の土地を買う資金となりましたので母の助言はありがたかったですね。
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source : 文藝春秋 2022年11月号