霜月に入り、日中は小春日和の穏やかな陽気でも、午後の陽の傾くのは切ないほど早く、闇が降りてからはぐっと冷え込んでくる。そんな中で風呂が壊れた。
私の住まいは高度経済成長期の終わり頃に建てられた核家族向けの鉄筋コンクリートマンションだ。白黒テレビがカラーになり、トイレは水洗になり、広くはないリビングに家具調ステレオやサイドボードが置かれ、舶来のブランデーが飾られた頃。庶民の暮らしは目に見えて便利で豊かになり、皆がささやかな贅沢をかみしめた時代だったろう。当時一室を購入した人々の子供達は、今やより快適な棲み家に巣立っていったのか、堅牢だがもはや古ぼけた意匠のマンションに若い人の姿は少なく、残された世帯主らは手押し車を押し、似たように老いたペットを抱いて、静かに暮らしている。
私は十年ほど前に、老オーナーから今の部屋を借りて住み始めたのだが、広くて清潔な割に割安だと思ったら、中の設備のほとんどはマンション施工当時そのままに古かった。襖の立て付けはきしみ、洗面所にお湯は出ず、風呂も膝を抱いたポーズを崩せないステンレスの浴槽に、ハンドル式のバランス釜だった。
「バランス釜」とは一九六五年頃から公営団地の建設ラッシュ時に普及したガス式風呂釜だ。右手でガスのつまみを押しひねり、左手で鉛筆削りのような着火ハンドルをカチカチ回しながら覗き窓から釜の火を見て、えいやっ、ともう一段階つまみを回す。「ボッ」という音がすれば点火成功だ。この塩梅が案外難しく、日によって釜の機嫌は変わり、つまみをひねるタイミングがまずいと火がつかない。おまけに蛇口から出る湯量は心許なく、湯はりに時間はかかるし、シャワーも老人の小便のような勢いだ。とにかく毎晩、火起こしするボーイスカウトの少年のような真剣さを要する十年だった。酔って帰ると手元が鈍って火がつかず、癇癪を起こしたまま風呂場で寝てしまったこともあった。
令和の時代に、いつまでこんなにも風呂の湯にてこずるのだろうかとボヤいていたら、ついにその日がきた。深夜に帰宅したある晩、カチカチカチ……着火せず。覗き窓から見る釜の奥は漆黒の闇。前日まで何の兆候もなかった。前触れもなく、連れ添った伴侶に出ていかれたようで、慌てた。……寒い。悪かった、俺が言いすぎた。
「そりゃいけません、大変だ。大家さんに言ってすぐに取り替えてもらいましょう。ただしお宅は古いバランス釜ですから、メーカーも限られてまして、取り寄せに時間がかかるかもしれませんのですよ。寒くなりますのにお気の毒ですねえ。お風呂屋は、隣の駅前にありますでしょ」
仲介の不動産屋は同情して見せたが「この際便利なシステムバスに一新しましょう」とは言わなかった。
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source : 文藝春秋 2023年1月号