ついに順番が回ってきた。十一月のある晩〇時過ぎ。書いていた原稿の筆がピタリと止まった。よくあることだ。年々歳は重ねているのに、体や脳は子供のように正直になる。だけどその晩のずん、と重い眠気は覚えのないものだった。頭にモヤがかかり、泥沼で車輪がスタックするように、世間をすべなく憂うばかりの駄文が重なった。「だめだこりゃ」と匙を投げた。喉が少しいがらっぽかった。
六時間後。軽い咳で目覚めた。「おはよう」と一人声を出してみると、完全に場末のスナック勤務の声。でもきっとこれはただの風邪。ワクチンも打ったし、例の流行り病じゃない。三週間後にCM撮影を控えていた。隔離なんかされたら全ての予定が崩壊し、正月は餅なしになる。
私は考えた。幸い熱はない。ロケ地は屋外だし、周りは元気な若者がほとんどだ。このままスルーして社会活動を続けても、事なきを得るのでは?——スネに傷があった。二日前に大混雑の中華料理屋で、同僚と二人で散々喋って飲み食いした……黙っていたい。念のため買い置いていた抗原検査キットを口にくわえてみると、くっきり「陰性」の線が出た下に、少し遅れて「陽性」の線が、淡く、半透明に浮かび上がった。疑惑の判定。
仕方なく近所のクリニックの発熱外来に出向いた。私は調子に乗った不届き者らしく背中を丸めて裏口をくぐったが、マスクにフェイスガードの軽装備の看護師さんは慣れた様子で検体を受け取り、医師は気さくにその後の流れを説明してくれた。……なんという落ち着きだろう。二〇二〇年の夏、実家に帰省しようとした直前に軽い風邪の症状が出て、PCR検査を受けられないかと近所の内科に相談に行ったことを思い出した。
一軒目の内科ではぴしゃりと叱られた。あなたの都合で検査なんかできない。今の医療体制の状況をわかってますよね。受けたきゃ民間の検査でも自費でどうぞと。当時、相場は三〜四万円だったか。
ならばせめて少し安価な抗体検査でも、と訪ねた二軒目の医師は、すんなり理解を示した。「感染拡大防止の観点から、多くの人がPCR検査をするのは、僕は正しいと思います」と、区のPCR検査に取り次いでくれた。しかし手渡された地図には「第三者に明かさないでください」「公共交通機関での来場はお控えください」との注意書きがあった。まるで秘密結社のアジトのビラ。医師には「何か聞かれたら、『陽性者と一緒にいた』とでも言ってください」と指示された。
検査場は、閉鎖された病院のような旧い建物の中にひっそりと置かれて、広い待合室に人がぽつん、ぽつんと間隔を置いて座らされていた。やはり受検を認められる人の数はそう多くはないらしい。検体室ではフル装備の防護服の男性検査員が、私の予約票を手にして待っていた。
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