二〇一九年三月二十一日、七年ぶりに日本開催されたMLB開幕戦の第二戦目で、イチロー選手は引退した。延長十二回までもつれた試合が終了したのは二十三時をすぎていたが、東京ドームに詰めかけたファンは席を立とうとせず、再びグラウンドに現れたイチロー氏に送られた三六〇度の地鳴りのようなスタンディングオベーションは伝説だ。パンデミックの一年前。やっぱり持ってる人だった。決断が一年遅ければ、あんなに多くの観客に、あんなに大きな歓声で送られることはなかっただろう。悠々と手を振りながら歩く姿は私の席からは豆粒のようであったが、その感情が震えているのが伝わってきた。あのイチローが、あのイチローが、日本のファンに、感動している——。
スポーツ好きなら誰しも「あの一戦をこの目で見た」という自慢話があるものだが、私には当分これに勝るものはないだろう。しかし「引退試合」となったのは結果論だ。イチロー選手はそしらぬ顔でスタメン入りして試合は始まり、二回表が終わった頃、突然客席の一部がどよめいた。そして短い悲鳴と嘆息混じりのざわめきが球場全体に波のように広がっていった。私には状況がわからなかった。誰か怪我でもした? いや、イニングの合間だ。しばらくして隣のサラリーマンが「わ、引退だ」と声をあげた。一番早かったのはSNSだったそうだ。ネットに記事が出始めたのはその後だった。
ソーシャルメディアを使わない私は「これが情報に遅れるということか」とその時実感した。真偽はともかくスピードが速く、名もなき人の言葉が無限につながるSNSの影響力と可能性はその後も拡大し、反面コロナ禍で人の口から耳に直に入る話は減った。人並みにニュースに触れているつもりでも、「世情について行けていない」と思うことが増えた。
「知らないんですか、大炎上ですよ」
「え、何が?」
ととぼけたことを言って、相手を呆れさせることも多い。いまだ新聞・ラジオ・テレビなどの大手メディアだけに情報を頼る人々は、世の中の生の実感からずれ、マインドセットが遅れているそうだ。日々更新される共通言語や議論がいくらネット上で盛り上がろうと、届かない。
「何て言われてるか知ってるんですか?」
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source : 文藝春秋 2023年3月号