「事実は小説より奇なり」を地で行く物語
僕はスパイ小説には目がなくて、若いころはイアン・フレミングやジョン・ル・カレに耽溺したものだった。このジャンルは、なぜか、連合王国(UK、イギリス)のお家芸だが、本書も例外ではない。しかもフィクションではなく、これは実話なのだ。まさに「事実は小説より奇なり」を地で行く物語で、心臓をドキドキさせながら2日で一気に読み込んだ。あまりにも面白くて途中で止めることができなかったのだ。
1938年、KGBの一家に生まれた冷静・有能で知的なエリート、オレーク・ゴルジエフスキーは、当然のようにKGBにスカウトされ出世の階段を上り始める。しかし、派遣先の東ベルリンで見たベルリンの壁の建設や最初の赴任地デンマークで知ったプラハの春の弾圧は、オレークに共産主義体制に対する嫌悪感を抱かせるのに十分だった。
オレークは、ソ連を西側諸国のような文化的で自由な国家に転換させようと考え、1974年から2度目の赴任地デンマークで密かにUKの情報機関MI6のために働くことになった。2重スパイが誕生したのである。KGB式の政略結婚に倦んでいたオレークは、同時に、2番目の妻となる純真なレイラとの恋にも陥っていた。
MI6にとってオレークはかけがえのない存在だった。なぜなら、西側情報機関にとって、工作員をKGBに潜入させることは火星に送り込むのと同じくらい無理なことだったからである。
MI6は、緊急時にオレークをソ連から脱出させるピムリコ作戦を策定していつでも(毎日)発動できるようにする。1978年、オレークは帰任する。スパイの長期運用を考えるMI6は、モスクワではオレークを休眠させることを選んだ。
1982年、オレークはロンドンに赴任して休眠から目覚めた。オレークは、個別の情報に留まらずソ連の指導者層の考え方を西側に伝え、サッチャーやレーガンは、名も知らないこのソ連人に深い敬意を抱いた。
1984年のアンドロポフの葬儀でサッチャーの言動が称賛されたのは、オレークのアドバイスによるところが大きかった。同年冬に行われたゴルバチョフのロンドン訪問では、オレークとMI6が協働して同じ報告書をサッチャーとゴルバチョフに上げた。ここで両首脳の信頼関係が築かれたのである。
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source : 文藝春秋 2020年9月号